新・私の独り言


しんばし南店は「宇和島の巣鴨」だと思う。

しんばし本店も「宇和島の巣鴨」であった。

サンシャインも「宇和島の巣鴨」になりそうだ。

まわりを見直したら、宇和島全体が巣鴨だった。

別に巣鴨が悪いと思っている訳ではないけど。


残酷な話(この犬を救う手だてはないのか)

我が家の近くに時々やってる野良犬がいる。何時もおどおどとしておびえながら生きている。昨年、そのメス犬が真夜中に庭に侵入し、うちの雄犬コナンと子孫繁栄の作業をしているのを発見したが、説教をしたものの時すでに遅く、昨秋三、四匹の子犬が生まれたらしい。その後コナンの彼女及び子供たちの何匹はか捕獲されたらしい。

しかし、しばらく姿を見かけなかったが、捕獲を免れたこの二匹の犬が姿を現した。
オスとメスの兄妹だと思われる。ここでは推論で書くしかない。
姿形からコナンの子供たちに間違いはないと思うが、オスはジュニア、メスはドータと勝手に名前を付けていた。ジュニアは何時もドータをかばうようにしていた。

野犬に餌を与えることは決して好ましいことでないことは十分判っている。しかしコナンの血を分けた子供を見捨てることは忍びない。だが、臆病な子供たちは危害を加えることはしないにも関わらず、決して近づこうとはしない。うちのそばに駐車場があるのだが、そこがしばし安住の場所と知っているのか、時々訪れる。

ある日を境にドータの姿が見えなくなった。そうして次に姿を見せたときは、無惨にも左の後ろ足が無くなっていた。

御覧のように骨がむき出しになり、生々しい傷は癒えていない。

噂ではどこかでトラばさみの罠にかかったと聞く。トラばさみは今は法律で禁止されているとも聞いた。これはまさに動物愛護法に違反しているのではないだろうか。

人に危害を加えてはいけないことと、狂犬病の予防のために(現在日本で狂犬病が発生したということは聞いてはいないが)野犬の捕獲は行われているらしい。

私は数日前に腎臓尿管結石で二日ばかり痛さにのたうち回った。

石を溶かす薬と、毎日2リットル以上の水を飲んだおかげか、その後レントゲンでみてもらったら石は消えていた。あの痛さはかかった人間にしか判らないだろう。

私の痛みは去ったが、この犬の痛さはいったいどれくらいのものであろう。

近所の人の話ではしばらくは足クビがぶらぶらしていたらしい。当然最大の責任はこの犬の母親は、あるいはもっと以前にさかのぼるのかは判らないが、犬を捨てた人にあるのだろう。

うちのコナンの残った餌を求めて来ているが、庭には入れないように囲いの下の狭い所も塞いでいる。真夜中にコナンの吠える声で出てみると子供たちだ来ていたことがあっったが、最近は親子の情が伝わったとも思えないが、コナンは子供たちに対してキュンキュンと甘えるように鳴くようになった。(猫の対しても同じだが)

おそらく野犬の暮らしが身について居るだろうから、人に慣れることはまず無いだろう。(猫にさえおびえているらしい。夜中に猫に襲われ悲鳴をあげたこともあるようだ)

私にはこの犬たちを救う手だては皆目見当が付かない。先日も雨の中、濡れた犬の姿が駐車場にあった。悲哀に満ちた眼差しを思い出すと目が熱くなる。

この犬たちを助ける方法はないものだろうか。

気が付けば私の周囲には悲しい事がまだまだあった。

このような話題のあとに不謹慎かも知れないが。

最近私は西郷輝彦と水沢有美の「兄妹の星」を覚えている。私が高校を卒業してまもなく流行った歌らしい。伴奏がださいところが良い。また歌詞の「兄さん」「ん…」という掛け合いのところと「兄さん 【みやこ】へ発つ朝に」と言うところが時代離れをしていて面白い。当時まだみやこと言う表現があったのだろうか?

10月10日

1964年東京オリンピックが開催された時、東京の空は綺麗に晴れ渡っていた。私はテレビの放送を見たかったが、当日は模擬試験があったために見ることが出来なかった無念を覚えている。
そうして2011年10月10日、私を未曾有の厄災が襲った。
昨年の10月12日、石鎚山に登った。今年も友人たちと登る計画をしたのは6月であったが、それぞれの日程の調整ができないまま、延期になっていた。この日は連休最後の日であるために多くの人出が予想されていたが、事前調査を兼ねて私は一人で登ることにした。今までは大洲、内子、小田を経由して面河から石鎚スカイラインを車で行き、土小屋の駐車場に留めて、徒歩で登っていたが、今年開通した、梼原から地芳トンネルを抜けて面河に出るほうが時間的にも楽ではないかと思い、そのルートで走ることを考えた。
前日は少し早めに寝て、タイマーを午前4時半にセットして、5時に家を出る予定にしていた。私を襲った悲劇はその朝始まった。

背中の痛みで目を覚ましたのは午前3時頃であった。ずっと昔、やはり背中の痛みで目を覚ました事があったが、その時は帯状疱疹の前兆の肋間神経痛だった。
ふとそれを思い出したが、痛みはすぐに消えたので、目を覚ましたついでに、早めに家を出ることとした。
コンビニで朝食用と昼食用のおにぎりを買って、梼原目指した。ところが柿原トンネルの中で急に背中の痛みが再発した。しかも背中だけではなく右の脇腹も痛い。耐え難い痛みであった。痛さの為に冷や汗が出てきた。これは中止したほうが良い、と賢明な私は判断し、水分を過ぎてから宇和島に引き返した。

ところが丸穂まで戻る頃には嘘のように痛みは消えていた。賢明であったはずの私は愚者に変身していた。よせば良いのに結局面河に行ってしまった。石鎚スカイラインのゲートが開くのは午前7時であった。私がゲート前に着いたのは午前6時半。本来ならここで朝食をとる予定であったが、痛みは消えても体調は万全ではなかったようだ。食欲が全くない。無理をして栄養ゼリーを喉に流し込んだ。

7時にゲートが開くと、次々と待ちかねた車の列が土小屋目指して走っていた。
私はなんとか駐車場に車を留めることが出来たが、恐ろしいばかりの人人人であった。団体やグループで登山をする人が多かった。私のもっとも苦手とする状態である。カメラを構えてマイペースで歩くことが難しい。歩き始めておよそ4、50分して一番初めの休憩所のベンチに腰を下ろした途端、忘れていたあの痛みがまた襲ってきた。およそ30分も痛みに耐えながらそこでうずくまっていた。次々と元気な老若男女が私の目の前を通り過ぎていた。とても登ることなどは出来ないと判断して下りる事にしたが、下りることさえ出来ない状況であった。

ようやく痛みも消えたので立ち上がって、元来た道を引き返した。後から後から大勢の人が登ってきた。山を歩く方はご存じだろうが、山道は狭い。だいたい一人が歩く幅しかないので、登る人に道を譲らなければいけない。(現在はどのようなルールになっているか判らないが、私が山登りをしていた頃は、登り優先、というルールがあった。これは至極当然と言えば当然なのだが、下る人は足下を見るから登って来る人を見つけやすい。登る人は足下を見ているから、上に人がいることには気が付きにくい。中学校の頃、一人で三本杭に登って居たとき、急坂で突然目の前に人の足を発見した時はドッキリした。その人は下から登ってくる私が見えていたが、私は急坂で足下しか見ていなかった訳だ)

余談はこれくらいにして。
下りているうち、また痛みが襲ってきた。しかも足を一歩一歩踏み出すたびに、痛みがひどくなる。とうとう吐き気を催し、嘔吐してしまった。しかも一度ではない。ついには何も無い状態で嘔吐を繰り返す始末であった。

ベンチで休んで居るとき、ふと小沢一郎氏が救急車で運ばれた原因が腎臓尿管結石だったということが頭に浮かんだ。こんな山の中で倒れる訳にはいかない。無事に宇和島まで帰ることが出来るかと言う心配ばかりしていた。

車までなんとかたどりついたが、痛みは消えない。帰る途中で再発したら道ばたに止めて休むこととして、午前10時頃、なんとか痛みが治まり帰途に就いた。

宇和島に戻っても食欲はなかった。祝日当番医をしらべて医院に行った。先生は私の話に頷きながら身体のあちこちに聴診器をあて、尿検査の結果きちんと診断をいただいた。

私のとっては天地のひっくり返るような病名でも、世の中にはざらにあるらしい。
ネットで調べるとあるサイトでは日本人では20人に1人かかる病気だとも書かれていた。面白い事に、私におこった症状は全てこの病気のマニュアル通りであった。
明け方に痛みが起こる。冷や汗が出る。嘔吐する。
一つ面白い表現を発見した。どこか忘れたが、痛さを表す単位に鼻毛指数と言うのがあるらしい。最低基準が鼻毛一本。女性の出産は鼻毛10万本らしい。それぞれ個人差はあるだろうが、私の体験した痛さは出産に匹敵するらしい。

歳をとると身体にガタが来るのは仕方がないが、つらい一日だった。
おまけに尿の検査で糖が下りているとも言われた。

追記

日は変わり、翌11日、またも発作は繰り返した。しかも早朝と言うはずがルール違反だ。
午前2時、またしても痛みが襲ってきた。七転八倒しながら痛みの去るのを待った。
今度は長かった。まるで病院に行った私を嘲うかのように、容赦なく苦しめた。
また突然吐き気を催した。5時前、内容も無いのに何度も嘔吐した。酔っぱらっていた訳でもないが、吐くと気分が楽になり痛みも収まった。

東京の友人も同じ病気になっていると聞いたが、痛みが起こるのは年に数回らしい。私が連日痛みを感じたのも、この数回の一つなのだろうか。だとすれば当分おこることはないと思う。しかし年甲斐もなく、夜になるのが恐ろしい気がする。

この話題はきりがないからこれで終わる。「神様お願い」と祈るしかない。

後日談

10月14日 よしけんちゃん医院に行ってレントゲンをとってもらったら石は消えていた。おまけに不安であった糖も出ていない。石は溶解したか排出したか判らないが、尿はきれいなものであった。まずはこれにて一件落着

10月8日

現在は西予市になっているが、どうも西予市と言うと実態がつかめないので、明浜の俵津に友人に教えてもらって文楽を見に行った。彼は博識で文楽にも詳しい。

何でも野澤錦糸と言う有名な人が三味線を弾くらしい。

私は生まれてからこのかた一度も文楽を見たことがないので、後学の為に彼と一緒に出かけた

友人からの情報では10月8日に明浜で、野澤錦糸が来て文楽があるという事しか判らない。あちこちネットで調べて、俵津の文楽会館で1時から行われると知った。嬉しいことに入場料は無料だと聞いた。無料と言う文字に誘われて場所をカーナビで探したが載っていなかったので、住所だけで目的地として入れた。
文楽会館は俵津の町の真ん中にあった。

会場は狭いのか普通の広さなのか判らないが、こんな雰囲気であった。

俵津文楽創立160周年記念・朝日カルチャー義太夫教室・俵津文楽合同公演、という名目で、『壷坂霊験記』、『二人三番叟』、『絵本太功記十段目』の三つが行われた。

私は歳のせいで、パイプ椅子での長時間は腰が痛くなったが、演じる人たちの熱気には感心した。

このようなものは残念ながら宇和島にはない。ガイヤも結構なのだが、日本の伝統芸能の火を消さないでもらいたいと思った。

俵津にはこの文楽の会員が数十名いると聞いた。すごいことである。

上手なのか、そうではないのか素人の私には判らないが、外人が喜びそうな光景であった。ただ、義太夫を語る人によって言葉が綺麗に聞き取ることが出来、ストーリーが理解出来る時もあれば、聞きにくい人もいた。時折舞台横の席を見ると、ほとんどの人が目の前の本を見ることもなく、暗記しているのには驚いた。

手前味噌になるが、私のカメラは一切ストロボを焚かなかった。全て場内の灯りだけでぶれることもなく撮る事が出来た。デジ一に比べればきめの細かさなどは足下に及ばないだろうが、価格からすれば十分耐えうるものだと思った。

三脚を使って居なかったために、超望遠で撮ることはしなかったが、手持ちで可能な所までよる事が出来た。

カメラは家政婦に内緒で購入したので、我が家で取説を見ながら練習をすることが出来ない。ほとんどいきなり本番が多い。しかしだんだん慣れては来た。

夜寝る前に、こっそり練習をする事もある。被写体はほとんど毎回同じで、壁にかかっている時計だとか、本棚の本などであるが、夜中の室内でもストロボを焚かないで撮ることができる。


10月7日、久しぶりのオフ会?

江川崎にホビートレインの写真を撮りに行った。

この鉄橋は私の好きな場所である。このアールが何とも言えない。


こうして眺めると、列車の色彩もそれほど「どぎつく」感じなくなった。慣れか?

江川崎の駅を窪川に向かって出ると、列車はすぐに四万十川支流の広見川に架かる鉄橋を通過する。この鉄橋は昭和49年3月に出来たもの。(竣工はもっと前だろう)

(予土線の歴史的経過などを見る)

現在でこそ予土線の各駅周辺は、何処も同じようにさびれているが、かつて江川崎は宇和島方面と中村、窪川との分岐点でかなり栄えて居たはずだ。これは日吉方面と西土佐方面の分岐点の近永でも同じことが言える。

明治42年秋には第二次桂内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁であった、後藤新平が中村から川を遡り江川崎経由で宇和島に来ている。何時の頃消滅したのか不明だが、ヒコーキとよばれたプロペラ船がこの川を往来していたらしい。(関係ないがこの辺りではバイクの事をモーターと言う)

予土線が開通するまでは江川崎が終着駅だったが、線路は狭いカーブが続くために、車で宇和島を出ても列車よりも十分速く着くことが出来た。
しかし、江川崎から窪川までは近代工法で直線で繋がっているためにとても車では敵わない。


江川崎駅

季節の変わり目だからなのか、このところ身体がだるい。しかし今撮っておかなければ見ることの出来ない風景がある。という勝手な理屈を付けて秋の空の下江川崎にシマシマさんと出かけた。

私はこのRの付いた鉄橋が気に入っている。橋脚にカーブを付けることはそれほどたやすいことではないだろう。高さが目線であれば文句はないのだが、残念ながら少し高い。

奥が窪川方面、手前が江川崎の駅になる。

サイトの更新も三ヶ月ぶりだった。一年前の10月には石鎚山に登っていたが今の私にはとてもそんな馬力はない。この夏の暑さにはことの他参ってしまった。(私の周囲でも皆口々にそう言っている)
夜になると少しは元気が出てくるが、日中は動悸、息切れ、目のかすみがある。従って更新などと言う考えさえ起きない。惚けた脳が少し活発になるのは夜の九時を過ぎてからである。最近は滅多に本を読む事はないが、活字に目を通すのは10過ぎになる。
最近、文春文庫でだされている、模型のタミヤの社長・田宮俊作氏の「伝説のプラモ屋」と「田宮模型の仕事」を立て続けに読んだ。子供時代が思い出され一気に読んでしまった。気が付くと午前二時を回っていた事も何度かあった。

タミヤのプラモは実に素晴らしい。この本を読む限り、良いものは必ず評価される、という幻想にすがりたくなる。

本日の教訓・寝る前に面白い本を読んではいけない!

このトップの写真を撮る直前に、窪川から宇和島に向かう列車が走ってくる。
写真奥は宇和島方面。JRカラーが四万十川の景色に合っている。
断っておくが、これは「電車」ではない。一両編成だから厳密に言えば列車でもないが汽車でもないと思う。(汽車の文字からは蒸気機関車に牽引された車列を連想する)消去法でいくと、やむなく列車なのである。くどいようだが絶対に電車ではない。予讃線が大洲まで電化されても、そこから宇和島までは電化されることはまず無いだろう。

その大きな理由に、昭和20年夏、敗戦間近に開通した八幡浜−卯之町間の狭いトンネルと連続する急カーブによって架線をする無理をして作ったことが原因であるらしい。

本日の教訓・急いては事をし損じる、急がば回れ

私は鉄橋に平行にある橋の上から列車をねらっていた。
初めに窪川から来る列車が右手からやってきて、しばらくしてホビートレインが左からやってくる、と言うことは判っていたが、鉄橋の下から駅のホームが見え、そこで車両がすれ違いをしていた。左通行かと思っていたら右側通行のようである。
見えにくいが、ホームを挟んで右のクリームとブルーの列車が鉄橋を渡ってきて宇和島方面に向かう。左の赤い色の列車がこちらにやってくる。

これは何時だったのか不明だが、何かのイベントで予土線をSLが走った時に撮ったもの。同じ橋の上から200ミリの望遠で撮った。貧しかったので白黒フィルムである。

同じ時だと思うが、瞬間的にゆとりが出来たのか、生意気にカラーネガをつかっている。
国鉄の時代には客車はこのような赤い色ではなく、もっと黒に近い色だったと思う。

宇和島を出たSLが窪川から帰る時。窪川には転車台が無いために向きを変える事が出来ず、車で言えばずっとバック状態で走っていた。

本日の教訓
背に腹は替えられぬ、おぼれるものはワラをもすがる、支離滅裂その他

列車を待つ間、広見川が四万十川本流に流れ込む所を見ていた。

はるか先に小さな点がうごめいていた。(ちょうど画面中央)×の交点の少し上あたり。

どうにかデジカメの面目躍如といったところか。

本日の教訓・山高きが故に貴からず(はぁ??)

ついでに

私が撮った昔のSLの写真を探していたら、こんなものが出てきたので公開する。
年代は不明だが、第10回パリダカと言う文字から調べれば時期は判るだろう。

おそらく東京晴海のモーターショウかなんかで撮ったものだろう。
(別な用件で晴海会場に行ったことはあるが、こんな写真撮ったっけ?と思う)

私も若い頃はパリダカには随分あこがれを持っていた。

本日の教訓・栄枯盛衰、生者必滅、弱肉強食




2011年7月

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