心機一転

新・私の独り言


【平成23年11月5日】

姪の出産!

先日、アフリカにいる姪からメールで明るい話題が届いた。なんと姪が近々母親になるという知らせだった。マリ共和国の国籍を取り、マリのミュージシャンと結婚しているのだが、その華奢な身体には似合わない大胆で勇気のある娘だ。そのうちに母親にはなるだろうな、とは予想はしていたけれど、臨月も間近いと言うことで少し驚いた。現在はマリを離れて別な国でアルバイトをしているらしい。さすがに異国での出産と言うことで義理の妹が(姪の母親)数か月支援に行くらしいけれど、この母親と言い、姪と言い、なんと勇気のある女性だと改めて感心した。どうやら海外青年協力隊でアフリカに行った人は「アフリカ病」に罹る割合が多いらしい。
このせせこましい日本で暮らしていると、あの壮大なアフリカの大地が恋しくなるのだろう。
私もかつてモロッコに行った事があったが、日本を出て一ヶ月もすぎると、何処にいってもまとわりつく、あの赤い細かな砂にうんざりしたが、たまに大西洋岸アガディールにある日本の水産会社の出張所に寄って、数日おくれの日本の新聞記事を見ると、うんざりするような事件ばかりで、そんな日本に帰るのかと思うと切なくなったことがあった。
妻子がいる身であればこそ、二ヶ月経てば帰国しなくてはならなかったが、もし、独身であったならば今頃アフリカの土になっていたかも知れない。姪からは目に見えない何かを教えてもらった。
ただ、一口にアフリカと言っても、環境には天と地ほどの違いがある。姪の旦那の実家は水道も電気も無いところだが、まだ平和である。国、地方によっては戦火に見舞われている所もある。三十数年前に私がモロッコに行った時も、スペイン領サハラの独立、帰属を巡りモロッコ南部では緊迫した情勢があった。南に向かうほど都市の出入り口には軍隊がいて、警備を固めていた。一度など砂漠の真ん中で、弟が運転する私の乗った車に対し、武装した軍用ヘリが上空から接近したことがあった。見渡す限り何も見えない砂漠の真ん中で銃撃されても誰にも判らない。かなり恐怖を感じた。
私には判らないカーラジオのニュースでは、ボルサリオ解放戦線というゲリラ組織とモロッコ軍との銃撃戦で今日は何人死んだとか伝えていると言う弟の話であった。

今こうしている間にも、何処かで何かが起きているのだろう。

先日無事女の子が誕生したと言う知らせがあった。
驚くことに、色の白い、私の母かたの目をした子供だそうな。この目は強烈な優性遺伝を持っているらしい。私の従兄弟たちも同じような目をしている。

苦難の紅葉狩り

【11月14日】

桜と紅葉

日吉から梼原に向かう高研トンネル手前にはこの時期に咲く桜がある。

猛暑のせいなのか、今年の紅葉は綺麗とは思えないし、その見頃の時期もまちまちになっている。
ふと数十年前に行ったことのある、高知県の中津渓谷と安居渓谷に行ってみようと思った。
こういうことだと、思いついたら即座に行動に移すのが私である。
雑用の為に家政婦を乗せて、宇和島を出たのは朝の8時半頃であった。

梼原を過ぎ、新田から左折して与作に入った。(与作とは土地の人の通称で国道439号線=ヨサク=をさす)本当に懐かしい道であった。天狗高原までの道は最近でもよく通るが、矢筈峠のトンネルは本当に久しぶりだった。天狗高原までの道は二車線で快適であったが、そこを過ぎると途端に狭くなってきた。二車線の道路もバイクで走っていた頃は狭くて曲がりくねった道が多かった。まるで黒尊の林道なみだった。至るところ工事中だった道も走る度に広い道路に変わっていった。

(余談になるが、高知市から大分市に至る国道197号線は、佐田岬半島を抜ける道も今でこそほとんど二車線の良い道になっているが、昔は狭く曲がりくねった道で、197=行くな、と呼ばれていた。)

矢筈トンネルを抜け、長者までの昔と変わらない細い道を下っていると、昔、ムラカミさんやアキヒコ君たちとツーリングをした時の事を思い出した。ムラカミさんもアキヒコ君も今はもう居ない。二人とも病気で先立っている。ユージ君もムラカミさんが亡くなった年に他界した。多分その頃に撮ったものだと思われる写真で、長者の町中の自販機の側で缶コーヒーを飲んでいたものがあるが、そこに写っている人間で今居るのは私とヒデボンだけになってしまった。

国道33号線に出て右折し、高知方面に向かうと間もなく中津渓谷へ入る道を左折した。

昔はこんな旗などはなかったと思う。
中津渓谷には家政婦を伴って車で来た覚えがある。この先を上り詰めて明神山に出たことがあった。山頂に「アメダス」の観測機が設置されていたと思う。
御覧のように中津渓谷のモミジは青々としていた。

あまりにも秋らしくないので安居渓谷に向かった。
安居渓谷は、石鎚スカイラインの土小屋に裏側から(高知側)から向かい、瓶が森林道を走った時に通った覚えがあるが、人間の記憶の曖昧さを痛感した。勘違いばかりの私の人生そのものだった。
当時の記憶では、大きな石と綺麗な青い水があった事しか覚えていない。

安居渓谷に入る少し手前の小学校に作家の「宮尾登美子」が初めて教鞭をとった学校、と書かれていた。そのためなのかこの橋のたもとに「文学遊歩道」と書かれた看板が立っていた。そうしてこの橋を渡った先には、何故かサイズもスタイルもバラバラの俳句、短歌の書かれた石碑が乱立していた。詠み人はほとんど池川町の住民であった。


何とか秋らしい面目を保った紅葉

ここには二軒の食事の出来る店があった。
私は下の店で450円のソバを頼んだ。可もなく不可もない味だったが、うどんを頼んだ家政婦はつゆの味は良かったが麺の出来は不満だったらしい。

昼食をすませて、面河の紅葉を見に行こうと思った。問題ないルートは国道33号線に出て松山方向に進み、御三戸から面河に入る道だが、ふとムラカミさんたちとバイクで林道を進み、大森川ダムを経て土小屋に行くルートがある事を思い出した。地図を見て広沢林道を通ることにしたが、これが誤算であった。

安居渓谷の川の色は昔と変わっていなかった。

いったん439号の方に戻り、左折して山を越えることにした。
狭い道なので離合に苦心した。ある車と出くわした時、その車はまったく道を譲ろうとしない。仕方ないので少し広い所までバックした。
十分すれ違うことの出来る所まで下がったが、その車は左に寄ろうともせず、道の中央を向かってくる。私は身振りでその車に左に寄れと合図した。ようやく離合出来たが、むかついた私はその車を運転している男性をにらんでやろうと思ったが、かなりの高齢者だったその人は、まるで七福神の絵に出てくるような、本当に憎めない綺麗な笑顔で会釈をした。思わず私も笑顔で挨拶をした。助手席の人物は見えなかったが、後部座席のお爺さんもニコニコと笑っていた。何時もみんなあのような笑顔でいれば世の中は丸く収まると言うような不思議な笑顔であった。


広沢林道で見つけた秋

県道362号を島崎商事のところで左折して山の方に上がったが、この辺りの記憶はほとんど無かった。しばらく進んでナビに案内させてみようと行き先を入れたが、どうやらナビには林道を走ると言う能力はなさそうだった。

そう言えば昨年熊本から宇和島に帰る途中、中津の友人に会う為に国道212号を走っていて、菊池あたりで中津を入力したら、植木から高速に乗れと言う指示がでて、午後一時には着くだろうと思っていたらとんでもない時刻が出たことがあった。また、数年前に宇和島から岡山県の矢掛町に行くときは瀬戸大橋経由になっていたが、同じところから自宅に帰ろうとしたら、なんとしまなみ街道、今治を経由して帰る指示がでた。その時は仕方がないので高松を入力して瀬戸大橋を渡った。

ナビの案内を終了して地図で確認しながら広沢林道を進んだ。

やがて舗装は切れて私の好きなダートになった。ナビには時々宝来山の文字が出ていた。安居渓谷と平行して道は進んでいた。私の記憶では簡単に山を越え、大森川ダムに出るはずであった。もしかすると道を間違って居るのかも知れない。次第に不安になってきた。国道に戻ったほうが賢明かも知れない。広い道でUターンして引き返した。数キロ戻った所にプレートがあった。そこに書かれている文字を見ると、この道は広沢林道に間違いはなかった。またUターンして大森川ダムの方に向かった。
人間の記憶なんて確かなものではない、ということがよく判った。
地図では走ったことのある道ではあるが、僅か二度ばかりである。しかも二十年以上も昔のことだ。おまけにこの場所は昭文社のツーリングマップルではページの端っこなので、全体がつかめない。何とかダム湖に出たが、昔はそれほど木が茂っていなかったような気がするが、樹木が成長することを認識していなかった。
そう言えば高校時代、宇和島の登山ルートにある「命の水」付近は見晴らしがよかった。しかし三十年ほど前に子供たちを連れて行った時、あたりには木が生い茂り、昔の面影はなかった事を思い出した。

私の記憶違いはさらに重なった。越裏門と言う名の場所があるが、それが大森川ダムの近くだと勘違いしていた。そこは一山北になる長沢ダムの側だった。曲がりくねったダートを北に南に進んで、なんとか長沢ダムの側の小学校の前を通って県道に出た。何故かこの学校は記憶と同じであった。


面河渓谷の秋

林道に入ってからずっと押し黙っていた家政婦は、舗装道路に出て人家が見えてくると突然元気を取り戻した。
時刻はいつの間にか午後3時近くになっていた。秋の日はつるべ落としと言うが、山間の道は日も陰っていた。
よさこい峠を経て土小屋に着いた。ここから帰りはほとんど二車線である。気温は9度Cであった。


一年前に撮った開通したばかりの地芳トンネル付近

いしづちスカイラインを下って、面河に出て、御三戸を経由して33号線からループ橋を渡り梼原に向かった。
宇和島から面河に行くには、昔は大洲、内子から国道380号で小田を経由して久万から御三戸に向かうルートしかなかった。
内子−小田は随分道が良くなったし、真弓トンネルも新しいものが出来ているが、小田町内を過ぎると道が狭いところがあるし、距離が長い気がする。
梼原経由で行くことが出来るようになったのは、昨年11月に地芳トンネルが開通してからである。宇和島から土小屋まではおよそ2時間半で行くことが可能になった。(と思う)

なんと約3キロもある。交通量が非常に少ないのでスピードオーバーに注意が必要だ。

私がめっきり歳をとったことを実感するのは、車を運転しているときにスピードを出さなくなった事である。バイクで走っていた頃は何時も団子集団の先頭に居なければ気が済まなかった。
車に乗るようになってからもバイクの時の感覚があった。ついつい制限速度で走っている車でも、はみ出し禁止の道でなければ追い越しをする傾向があった。国道56号線では大洲から宇和に向かう鳥坂峠の登坂車線のある所ではかなりスピードを出していたことがあった。


これも昨年11月の開通してまもない頃の地芳トンネル付近

宇和島に着いたのは午後6時半であった。

この日、林道を含めて320キロ走っていた。疲れてはいたが、田舎道は都会を走るよりは遙かに楽である。

この八月、叔父家族を乗せて松山の全日空ホテルまで走った時はかなり疲れた。片側数車線ある道は大嫌いである。松山の町に入ってから極度に疲れた。
宇和島でも駅前道路を走るのは苦手である。出来るだけ避けている。この近くで一番走りやすい道は江川崎から大正、窪川に通じる国道381号線だと思う。対向車が少ない。信号が無い。のろのろ走る車もない。ストレスのない運転が出来、燃費も良い。

独り言のついでに書いておく。
昨日から急に寒くなった。今年の秋は遅いことは間違いない。しかし、春や秋はしのぎやすいとは思うが、春や秋はほんの一瞬だと思う。暑いか寒いかの繰り返しで平均気温が出ている訳で、平年に比べて云々と言うのは気象庁が出す数字に過ぎないのではないだろうか。平年など人の記憶と似たようなものだろう。思い違い、勘違いで生きてきた私の人生に似ている。

もう一度、元気なうちに広沢林道をゆっくり走ってみたい。

追補
痛みの消えているうちに書こう。
またもや腎臓尿路結石になった。午前中買い物に出かけたとき、数週間前から痛かった右の腰の具合が悪くなった。自分では胃ではないだろうかと疑っていた。それで徳州会に行って、エコーで検査してもらったら腎臓が腫れて、尿路結石の影が見えるとか、万波先生もいるのに、かかりつけのヨシケンちゃん医院に行ったほうが良いですと、と勧められてとりあえず帰宅。その間も痛みが激しくなって、あの一ヶ月前に体験した恐怖の痛みがよみがえった。
よしけんちゃん医院でレントゲンを撮ってもらうと、まぎれもない石の影。一応痛み止めと石対策の薬はもらってきたが、自然排出までには様々な痛みが来そう。
タクシーの中でも油汗をかくほど痛かった。帰宅しても痛さにじっと耐えるだけだったが、すーっと痛みが消えた。いつ痛くなるかも知れないので、とりあえず今のうちに書いておこう。二度あることは三度ある、と言われているが、今日の痛さが最後にして欲しい。


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