心機一転

新・私の独り言

いやし博・春の町歩き


今年のGWは非常に疲れた。天候は不順で雨の日があるかと思えば雲一つない晴天の日もあった。
私は何かにとりつかれたかのように、天気が良ければ山に行く毎日であった。
週に三回も行ったことがあった。かかとを剥離骨折をしていることが判ってからもサポーターとテーピングで固めて登っていた。
その罰があたったのだろう五月の中頃になって急激に体調を崩した。疲れはてたコナンも虚ろな眼差しである。まるで私の頭の中のようだ。


順番は前後するが、5月6日「日本丸」が出航した。


私は先回りして赤松の港に着いた。船の出航は午後2時と聞いていた。


私はこの様なカモメと船を重ねた絵を撮りたかった。
向こう左は坂下津エビス鼻。船は九島に向かうフェリー。


カモメには逃げるなと念を押していた。


飛び入りでイソヒヨドリまで参加してくれた。

山でこれほどまでに鳥が近付いてくれると嬉しいのだが。


が、しかし大浦湾を出航する「日本丸」が大きな汽笛を鳴らしたら、鳥は逃げてしまった。

私の計画とはみなこのようなものである。何時も寸前で頓挫してしまうのだ。



最近巡り会った懐かしい味「蜜饅頭」


蜂の焼き印が何とも言えない


割ってみるとこってりした甘すぎるあんこが一杯である。

市内で何軒か製造している処があるが、蜂蜜の
エグイ甘さを感じるのはこの店の饅頭だ。

連休期間中突然甘いお菓子が食べたくなった。(糖尿病の疑い濃い)、ネットで調べると日本全国どこにでもある饅頭だと思っていた蜜饅頭は広島県と宇和島近辺だけであった。

早速道の駅にあるだろうと思い買いに行った。吉弘製菓店のものしか置いていなかった。12個入りの一箱で1200円くらいだったと思った。製造は私の知っている店であった。かなり濃厚な甘い味がする。もっぱら山に行くときに持参することにした。店でバラで買えば一個84円である。

私の記憶では包装紙は六角形の蜂の巣のミツバチのデザインされたハトロン紙のような素材であったが、ここまでデラックスな包装紙ではなかった。
時々買いに店に行くが、やはり高速開通以来売り上げは伸びているらしい。しかし個人商店の悲しさだ。他品種小ロットで作らないといけないらしい。店のウインドウをのぞくと色々な種類の和菓子洋菓子が並んでいたが、それらがいつも完売出来るとは限らない。

甘いものには目がない私は、時々松野虹の森公園にある物産市の「桜餅」を買ってくる。6個入りで350円、三個で180円で、近在の道の駅で一番安い。おまけに美味しいのである。午前11時までにいかないと売り切れてしまう。ある時スーパーで桜餅を買った。○○堂と言う大型菓子工場の製品であったが、一口食べてその不味さに辟易した。季節ものだろうから来年までしばらく口にすることはないだろう。いや、私はその時まだ存在しているのだろうか、などと考えてしまう。


「伊達なまち歩き」と称するイベントが行われた

私には勇気のいる表現である。恥ずかしくてとても口にはできない。

伊達の読みは現在ではいうまでもなくダテであるが、(旧仙台藩士)大槻文彦博士によれば、ふるくはイダテであった。出羽(デワ)がイデハと呼ばれたのと同類である。延元四年(1337)の『白河証古文書』には「いだてのかもんのすけ為景」の名が見えて、伊達すなわちイダテであることを示している。
くだって慶長十八年(1613)政宗がローマ法王に贈った書翰にもローマ字で Idate と記されている。また伊達に「いだて」のかなをふることは、故実として幕末にいたるまで守られていたという(大槻文彦『伊達行朝勤王事歴』
吉川弘文館発行・人物叢書・伊達政宗・小林清治著より引用

ついでながらこれも知っていたほうが良いだろう。
はでな振る舞いに対して「伊達をする」と言い、またその人を「伊達者」とよぶことは文禄元年二月十三日入京したおりの派手な出で立ちからそう言われるようになったと言う説がある。大槻文彦博士はその著「大言海」のなかで

伊達 たてだてしきノ上下略して濁る。男ヲ立ツル意、即チ、男立、腕立、心中立ナドヨリ移ル。世ニハ伊達政宗卿ノ服装華麗ナリシニ起コルト云ヘド、コノ語政宗卿ノ時ヨリ古クアリシガ如ク、且ツ慶長ノ頃マデハ伊達氏ハいだてト唱ヘタリ

と述べている。仔細な部分では疑問もあるが、派手を意味する「だて」は伊達氏に由来すると言う俗説は改めたほうが良いだろう。吉川弘文館発行・人物叢書・伊達政宗・小林清治著より



4月29日・日吉夢産地


駐車場で何やらグリーンフェスティバルと言うものがあった。

何時も車を入れる駐車場は会場になり、車は近くの中学校のグランドを使用。


毎度のことなのだが「楽屋落ち」の気がする。


いやし博とは無関係な画像に思われるだろうが、全く無関係とは言えないだろう。
えひめ南予いやし博会場の一部でもある「足摺宇和海国立公園」の成川渓谷から高月山に登る道の状態の一部である。
高所恐怖症がとみに強くなった私は、足がすくんでしまった。普段は梅ガ成る経由で高月に登るのだが、気分転換にルートを変えたらこの始末。おそらく以前もこのような道だったとは思うのだが、私も年々老化している。バランスを崩せば、と考えると恐い。黒尊の若葉橋から沢沿いに上がる道ももう一人で登るのが恐くなった。
トラロープでは安全とは思えない。
全ての道がこのような状態ではないが、管理者はこの実態を知っているのだろうか。

成川で行われたグリーンマート。

大型連休も過ぎ、いやし博も一息つけたところだろう。
いったいこのイベントは何なんだろう。?
天赦園グラウンドで「伊達ワールド」と言うものがあった。チラシによれば「天守ステージ」「本丸体験エリア」「三之丸物販・飲食エリア」と書かれていた。後から考えると、アー、そう、と思えるが、青年団のお祭りのバザーとどこが違うのだろう。

いやし博、好意的にとらえれば、おそらく心身疲れた現代人を癒す場所の提供なのだと思うのだが、お祭り騒ぎで癒されるものだろうか。言葉などはどうでも良いのかもしれない。

せめて間違った情報だけは謹んでもらいたい。
ある民放の短編番組でずっと宇和島特集を流している。
多分二回目の放送だったと思うが、伊達秀宗が宇和島に入部した時を慶長二十年と言っていた。はやりの言葉で言えば時系列的には慶長二十年でもおかしくはない。
今手元に資料がないので正確な月日は忘れたが、この年は七月くらいで元和元年に変わるのである。情報通信の発達した現代であればいきなり元号の変更が出来るだろうが、伝わる速度の遅かった昔は後になって慶長二十年をすべて元和元年とすることにした。これは他の元号でも同じ処置が執られている。実に合理的な歴史の捉え方だと思う。
たまにこのルールを知らない作家がいると混乱のもとになる。
それと引っかかったのが、前年十二月に先に宇和島にやって来た山家清兵衛を伊達五十七旗家臣団の中に数えていたことだ。

やれやれ、

牛鬼は物珍しさはあるだろうが、本当のいやしになるのだろうか?

やがて夏祭りになればいやでも「ガイヤ」の音楽が聞こえてくる。
ガイヤのポスターを見るといつの間にか子供が中心になっていた。子供をメインに使うってちょっとなー。
せめて望むのはガイヤを郷土芸能の範疇にはいれないでほしい。

先日歴博の学芸員のお話で宇和島の八ッ鹿踊りが大正時代に京都の人らの手でかなり脚色されてしまった事を知った。馬鹿め。

夏祭りまで一ヶ月以上ある。体制を立て直し、夏のまち歩きに臨んで貰いたい。


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