心機一転

新・私の独り言



ニホンアナグマを見た・他



アナグマA

5月も終わる頃久し振りに林道を歩いた。
2月に右のかかとを剥離骨折していたことが判明してからは、出来るだけ足に負担をかけないように気をつけていたが、5月の連休が明けてから、体調を崩ししばらく山歩きをしていなかった。
寝込むほどではなかったが、家でぶらぶらするばかりであった。面白いことに足を使わなくなると足が痛み始めた。これでは体力が衰えると思い、出掛けることにした。トレーニングのつもりで成川の林道に午後出掛けた。鳥の姿も見えず、さえずりも聞こえないが一応「念のために」カメラを首からぶら下げて歩いていると、突然ご覧の動物が写真の正面右手奥から飛び出し、私に向かって突進してきた。
「えー!!」私は目を疑った。一瞬タヌキかと思ったが動作が素早い。タヌキは山で何度か目撃したが大抵は動作が鈍い。これは犬のように駆けてくる。白い鼻筋からアナグマではないかと思ったが何しろ瞬間的な出来事なので判断できなかった。
とにかく早かった。


アナグマA

アナグマは眼が悪いと聞くが、先に駆けてきたアナグマAは、私の存在に全く気が付かない様子だった。
林道の中央で仁王立ちになりカメラを構えている私の存在に気付いたのは、数メートル手前であった。私に気が付くと驚いて方向を変え左手の川の方向に下りていった。



アナグマB

後から追いかけてきたアナグマBは、私に気が付くと言うよりは、先を走るアナグマAが川の方に方向転換をしたのでそれを追うように進路を変えた。急いでカメラのシャッターを切ったが、最初に撮った一枚以外は近すぎた為にぶれてしまった。
ほんの一瞬の出来事だった。私は目の前で何があったのか判断出来ないほどの僅かな時間であった。

私が宇和島の近くでアナグマに出会ったのはこれが二度目である。初めてアナグマと出会ったのは黒尊スーパー林道がまだ舗装されて居なかった頃だった。バイクもホンダのシルクロードだったから三十年以上も昔になる。津島町から高知県に入って間もない場所で、ブラインドカーブを回ったら目の前にアナグマがいた。突然現れた私に驚いた様子で、かなりうろたえていた。私も驚いた。
バイクを止めて見ていたらもそもそと崖を下りていった。

成川で見たアナグマはおそらく繁殖期の行動だと思う。

この後林道の上の方で鳥を何種類か見かけたが、うまく写真を撮ることはできなかった。アナグマの写真をカメラのモニターで何度も確認しながらも、帰ってパソコンに取り込んで見るまでは不安であった。

この日は上の三枚しか撮ることは出来なかったが、なんとなく気分はルンルンであった。
ただこれがアナグマだから良かったので、イノシシが私めがけて突進してくる事はお断りしたい。

6月1日



老化を実感した

先月三間の畦地梅太郎記念美術館に行った、入場料大人300円は嬉しいのだが、その上に65歳以上になると高齢者割引で半額になる。さらに嬉しいのだが、私が半額になったことには少し寂しい気持ちにもなった。

取説が理解出来なくなった。複雑な説明はパスして動かすことに挑戦するのだが、説明書を読んでいないために失敗することが多くなった。失敗して説明書を読むとその原因が分かる。
包装された箱などから品物を取り出すことも上手くできなくなった。多分手順通りにすればきれいに開封出来るのだろうと思うのだが、面倒になって最終的に箱を破ったりする。ふと私がガッツ石松になったような気がする。
コンビニで買ったおにぎりは無難にパリパリの海苔巻きが作れるのだが、私がここに至るまでにはかなりの紆余曲折があった。私と同年代の人間には不慣れで海苔巻きおむすびが作ることの出来ない人もいるが決して笑ったりはしない。

思わぬ出来事に出会うと瞬時にその事態を判断することが出来なくなった。
上のアナグマと出会った時も、0.5秒ほど事態が飲み込めなかった。車の運転をしている場合には理解する以前に身体が危機回避の反応をして、ハンドルを切ったりブレーキを踏んだりするが、これは考えて行う訳ではない。
何年か前にバイパス下の(分離帯を挟んで片側三車線の)道路を逆送する車に出会ったことがあった。一瞬私が間違っているのではないかと思ってしまった。

五月上旬に咳が出始め、病院に行って胸の焼けるような痛みは治まったが、六月になっても咳はやまない。X線では問題ないと言われたが、喉も足も治りが極端に遅くなった。

「人間は生きていると言うことだけでも大変な事だ」五木寛之の言葉が身にしみる。

このまま枯れてしまうことだけは拒む。 

6月3日

さらにひどさを痛感した。
年金機構から封書が来た。「老齢年金支払い停止」と書かれた文字しか飲み込めず、これは理不尽、と思って問い合わせた。最終的には私が文面をよく読んでいなかったことが判った。
実家から弟に相続権のある某銀行の株券が出てきた。一株50万円三株で150万円の額面の株券なので郵便書留で送ったところ弟から電話で、額面150円だったと言われた。早とちりが多すぎる。勝手に解釈してしまう。これは困った。



スズメの観察

窓から手が届く梅の木に餌入れを吊り下げ、時々戯れに小鳥の餌を与えるようになった。スズメがよくやってくる。

集団でくるとその騒々しさはかなりのものである。網戸越しに動画を撮影した。網戸があると向こうは警戒感が薄れかなり接近しても気が付かない。網戸をあけるとやはりまだ慣れていないので、飛んできては私の存在に気が付くとあわてて逃げていく。

憂き世の騒々しさを忘れ、スズメの騒々しさに埋没すると心が和む。時間を決めて餌を入れてはいるが、時間に関係なくやって来ては空になったえさ箱を見てがっかりしたように帰るスズメを見ると、つい親心で甘やかせてしまう。原則的に我が家のスズメ、町内のスズメ、市内のスズメの順番で優先するようにしているが、残念なことに見分けがつかないのである。
たまにマナーの悪いスズメがいる。仲良く並んでいるスズメを威嚇して独り占めしているスズメを見るとつい網戸を開けて叱りたくなる。

ユーチューブのように画像を出すことが出来ないし、網戸越しなので

鮮明ではない。映像は右クリックで「対象をファイルに保存」

騒々しい冬のスズメ 騒々しい夏のスズメ えさ箱の中に入るマナーの悪いスズメ
ルールを守るスズメ1 ルールを守るスズメ2

6月7日


いやし博について

先日野生動物研究家であり私の恩師でもある方から、私は「いやし博」を冷たい目で見ているとのコメントを頂いた。うーん、そう見られたか、反省しなければ、とは思いながらも、何故そんな視点になったのかと自己分析を始めた。

話しは昭和63年4月6日にさかのぼる。甲子園の選抜大会で優勝した宇和島東高校野球部が母校に凱旋をする日であった。選手たちが帰って来るのは夕方近くだったと思うが、その日は朝から商店街は異様な雰囲気に包まれていた。私がかつて体験したことのないような熱気であった。私は所用で商店街を自転車で通っていた。人出は祭りのそれに似ていたが、さらに熱いものであった。話す言葉には宇和島市内の言葉とは明らかに異なるイントネーションのものが多かった。
おそらく山奥の人たち、海岸の人たちが野球部選手を一目見ようと集まっていたのだろう。しかし単に物見高さだけではない何かを感じた。うれしさ、喜びそうして「何か」を期待する人が集まったのであろう。それは下からわき上がる期待感だった。その時のあの群衆の熱気は今でも忘れる事はない。

この「東高野球部見たい群衆事件」(私が勝手に今思いついた言葉)を体験しているからこそ、「いやし博」に対する当初の期待が見事に覆された事への失望感が冷たい視線になったのだと思う。

とにかく第一弾は終わった。第二弾に期待することにしよう。



AKB48

何時の時代でも人は何かに憧れるエネルギーを持つことはあるだろう。だからAKB48などと言うマスコミの商業主義から作り出されたものに熱中することを頭から否定する訳ではない。しかし、そこにまとわりつくものには余りにも異常すぎるものを感じる。確かにこれだけではなく日本社会の幼稚化は今に始まったことではないだろう。しかし武道館から300kmほど離れた場所では未だに高濃度の放射線の為に住む場所を離れ意志とは無関係な暮らしを強いられた人たちがおり、本当のことの判らない、いや、判ることの出来ないなかでの「収束宣言」とは名ばかりの状態であるということを考えると、「カオス」とはこう言うものなのかと思ったりもしている。
第二次大戦後の焼け跡から見事に立ち直ったのは、一にも二にも私たちの親たちが頑張ってくれたおかげだろう。先日衛星放送で市川昆監督の「東京オリンピック」を見た。さすがに名監督だと思わせるのは半世紀も昔の映画とは思えないような作り方をしており、今見ても全てが新鮮に感じた。この1964年はやがて来る1970年というピークに向かう最終ステップだったのかも知れない。
まだ形はハッキリと見えて来ないが、この「カオス」の次に姿を現してくるものは何だろう。そろそろ形が見えて来たような気もすろ。
私などは老い先短い世代になったが、今の若者に果たして明るい未来と希望はあるのだろうか?私たち世代の責任は大きいだろう。


仏 教

ある新聞の投書欄に次のような投書が載っていた。投書子は都内の仏教系の大学で仏教を勉強するために入学した。投書子の周りは日本各地から来たお寺の息子が多かったが、話す内容は「車」と「女性」の事ばかりで、仏教学部で学ぼうと思っていた人間と仏教と言う大きな命題の話しは出てこない。彼らはやがては実家に帰って寺を継ぎ僧侶となる人が多いのだろうが、果たして僧侶として人の悩みを聞き、人の道を説く事が出来るのだろうかと疑問を抱いた、と締めくくっていた。
私がこの投書を読んだのは現在ではなく1960年代後半の頃である。
もちろん全ての仏教系の大学の学生が当てはまるとは考えていないが、投書子が抱いた疑問は私も同じであるし、今に通じる問題でもあると思う。
別に深い意味はないがふと思い出した。(6月14日)


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