心機一転

新・私の独り言


猫のフクちゃんの去勢手術をした

今年の六月

最近(鼻に模様が出てきた)

 すっかり青年の様相になった猫をクロダ先生のところで去勢の手術をした。かなりショックだったのだろう。うちに連れて帰ってからは私に対して敵意を持ち、猫なで声で話しかけても顔を背ける。


嗚呼!大失敗!

 久し振りにラーメンを食べた。少し多めにコショウをふりかけた。

がーん。七味唐がらしとコショーではフタの構造が違っていることをうっかり忘れていた。

 七味はキャップをねじって全部取り外す。しかしコショーはプチンとキャップを開けるだけである。私はコショーのフタを外してラーメンに振りかけた。ラーメンの上に山のようにコショーが堆積した。あわててスプーンで取り除けたが食べ終わった後鉢の底にはヘドロのようにコショーが溜まっていた。友人に話すと彼もよく同じ失敗をするらしい。同じハウス製品なのになぜ統一しないのだろう。


一冊の本

 11月14日夕方の「愛媛朝日テレビ」のニュースの中で、人生を変えた一冊の本というテーマの番組があった。ある貿易会社の社長さんが取り上げた『吉村昭著「漂流」』は私も番組をみた瞬間に思い浮かんだ本であり全く同感であった。昭和55年に発行された新潮文庫の「漂流」の新聞広告には正確な表現は間違っているかもしれないが「絶海の孤島で十三年生き延びて帰ってきた日本人がいたというようなコピーがあったと思う。私はそれを見た瞬間、この本は絶対に読もうと思った。(本著は昭和51年に新潮社からハードカバーで発行された)

 即座に書店に出掛けてそれを買ってきた。ページをめくった時から最後まで一気に読んだ。読み終えたのは午前一時を過ぎていた。最終章にさしかかると感涙が溢れて来た。

 この本に出会った時私は深い絶望の中にいた。全てが八方ふさがりで明日の希望も失っていた私に人生の指針を与えてくれたのがこの本であった。それ以後も何度か読み直すことがあった。文字の小さい文庫本で400ページ以上になる。それなりに読むにはエネルギーを必要とするが、何度読み直しても泪が出てくる。感動の泪である。ご存じの方もおいでのことと思うが、私の中にも再びあの感動を思い出しながら以下に簡単な紹介をする。

 天明5年(1785)1月28日、赤岡村の船乗り長平の乗った船は土佐の城下からお助け米を安芸まで運んだ帰り嵐に遭遇し、数日の漂流後、現在の「鳥島」に三人の仲間と漂着した。その絶海の孤島で幾多の苦難を乗り越え、寛政9年(1797)6月8日島を脱出して9月17日浦賀にたどり着き翌年2月6日土佐浦戸の港に帰ってくるという実際にあった話を基に書かれた小説である。

 当時は国外に出たものが日本の土を踏む時には厳しい取り調べがあった。その為に取り調べの記録が残り、吉村昭はそれを参考に彼なりの分析と人間観で書き上げたものであろう。血の通った人物を克明に描写する彼の手法には主人公がすぐ側にいるような息遣いを感じる。

 私がこの本で得たものは、主人公長平の「希望と目的を持って生きる」と言うことの大切さであった。同じ難破船に乗り合わせ島に漂着したものの三人の仲間は島が無人島であることに絶望し、生きて故国の土を踏むことが出来ないとあきらめ、無気力、怠惰から健康を損ねて相次いで病死する。
 そんな仲間の状況から長平は生きて帰るという希望を捨てず、そのためにはまず島で生き延びることの大切さを感じる。希望は夢や願望ではなく現実のものとしてとらえた。さらにその目的に到達するために必要なことは正確な状況判断と分析であろう。それらが長平の言葉を通して私に語りかけてきたように思った。

 長平にとり何よりも幸運であったのは島が「アホウドリ」の生息地だった事である。素手で捕獲できる鳥が季節が変わると島から離れることを察知し、食糧確保のために鳥を捕って乾し肉を作って飢えをしのいだことが彼が生存し得た最大の理由ではないだろうか。さらに健康を維持するために日課として身体を動かすことの大切さもあろう。とりわけ強い精神力の持ち主であったことが彼を土佐の故郷に導いてくれたのだろう。
 仲間が死んだ三年後大坂の船が漂着して仲間が十名以上に増えた。その頃にはまだ沖合を通過する船がいるかも知れないと、自分たちが救われるう期待を持っていた。島が無人島で、長平は一人で生きてきたことを知ると、あきらめて自ら命をたつ人間もいた。一時期はそんな環境で国に帰る希望を捨てずにいる長平を疎んじる人間も出てきた。
 生きるために必要な雨水を溜める貯水池まで作ったり、団体生活では必要なルールも作る。
 長平が島から抜ける決意をするのはその後薩摩の船が難破して四名の仲間が加わった時、彼らの持ち物の中に船大工の道具があるのを発見した時であった。

 長平は何十羽のアホウドリに書簡を付けてみたものの何の返答もなかったこと、沖合を通過する舟影を見たことがない事などを告げ、難破したした船の残骸や漂着した流木などを集めて1年がかりで船を造り、青島、八丈島を経て本土に帰ってきた。驚くべき事であるが紛れもない事実である。

  「漂流」を初めて読む前に高知の室戸岬に向け、55号線を車で走っていた時のことである。道路沿いに何だか訳の分からない奇妙な銅像があった。一度しか目にした事がないので正確な姿は思い出せないがどうもそれは長平の銅像だったような気がする。

 以前吉村昭が好きだと言ったら、あんな女々しい文章を書く人の何処が良いのだと言った人がいた。たしかに彼の筆にはよく泪を流す男が出てくる。しかし私はだからこそ生きている人間の感情が込められているのだと思う。

 同じ歴史を素材とする司馬遼太郎が扇子を手に面白おかしく語る講談師だとすれば、吉村昭は顕微鏡をのぞきメモをとる学者のように思える。それぞれの作品に小説としての面白さはあると思うが、私が感銘を受けたのは吉村昭の「漂流」であることには間違いない。

 本来ならば吉村昭氏と敬称を付けるべきであるが、流れ上割愛した。氏とは一度書簡のやりとりがあった。「長英逃亡」の取材で宇和島に来られた時のことを詳しく覚えておいでであった。氏からの返信を頂いてし数年後氏は病床で点滴チューブを自ら外されてご家族の目前で他界されたと聞く。返信には四月には宇和島に行くと書かれていた。もしその時私が望めばお会いすることが出来ていたかも知れないような文面であったが、それに対しての再伸は出さなかった。


余談
 長平は土佐に帰るjと野村と言う姓を与えられ、いろいろな席で体験談を話しては金品を得て暮らしていたという。妻をめとり子供にも恵まれた彼は無人島というあだ名を付けられ、文政4年4月8日60歳でこの世を去った。

 小説では長平が土佐に戻ってからは無人島での長平ではなくなったような記述であるし、長平には悪いが世間に戻ってからの彼には生き生きとした、記述がない。おそらく吉村昭もその辺りの所は判っていたのだろう。かれが故郷に戻った時、すでに生きて帰ると言う目的が達成された為に長平も執筆者も燃え尽きたのかもしてない。

 私はふとイタリア映画リナ・ウェルトミューラーの「流されて」を思い出した。これは上流階級の船主の女性と貧しい船乗りの男の色恋を描いた映画である。タイトルの如く船が流されて無人島に流れつき、力関係が逆転するそこでの暮らしが生き生きと描かれていた。やがて救助され人間社会に戻った時に夢は消えるというようなストーリーだった。地味な映画だったが私の好きな映画だった。

さらなる余談
 これまで何度か「漂流」を読んだが、土佐に帰ってからの章はそれまでのストーリーに感激していたために、仔細な内容は流し読みでしか無かった。これを書くときにもう一度終わりはどうなったのか読んでいると、長平が領主から姓を賜ったとき吉村昭は「領主松平土佐守」からと書いていた。ん?「松平?」ちょっと気になった。松平は松山藩の藩主にいるのだが、伊予と土佐を間違え筆が滑ったのでないか?ついそんな思いに駆られた。しかし何事も詳しく調査したうえで執筆する人である。彼に限ってそんな間違いはないだろうと思ったが、気になるので土佐 山内家宝物資料館に電話で問い合わせた。
 藩主は時代的には10代藩主山内豊策(−とよかず)になる。電話に出られた学芸員とおぼしき女性も私の「山内豊策は松平土佐守と呼ばれていたのか」という問いに「?」と首をかしげた様子だったが、
「調べてみますからしばらくお待ちください」
 と言われ数十秒保留のメロディーが流れた。やがて
「そのように呼ばれていたことに間違いは無いですね」
と言う返事だった。さすが吉村昭さんだ。(結局最後には「さん」付けだ)

 学芸員は吉村昭の「漂流」も赤岡村の長平もご存じなかったようである。

しかしテレビで見るとアンケートで「人生を変える本に出会った事がある」と答えた人が46%だったことは残念な数字である。図書館からは本がどんどん捨てられているらしい。

鳥島(ウイキペディア)

国土理知院地図(クリックすると大きな画像)(平成24年11月15日)


もう一冊の本

 私の前に「日本青春文学名作選・日本青春詩集」という薄汚れた本がある。吉田精一の解説による昭和38年101日に学習研究社から発行された小さな本である。この「日本青春詩集」の他にどういうものがあったのか、カバーを見ると第一巻「三四郎/河童/伊豆の踊子」、第二巻「坊ちゃん/雁/友情/啄木のうた」、第三巻「こころ/愛と死/風立ちぬ」、第四巻「野菊の墓/嵐/路傍の石/足摺岬」、第五巻「あすなろ物語/潮騒/太陽の季節」、第六巻「天の夕顔/金閣寺/性に目覚める頃/悪い仲間」、第七巻「それから/人間失格/オリンポスの果実」とあり、第八巻が「日本青春詩集」となっている。今タイトルを見ると、文学と思えないあまりにもお粗末な作品も入っているが、『青春』文学ということなので目をつぶるしかない。

 当時としてはごく有り触れた本だが、私にとってはかけがえのない本である。父が私に買ってくれた唯一の本であった。私から求めた本ではない。ある時突然父から「この本読めや」と言ってもらった本だった。年代から思うと多分高校の入学祝いだったのかもしれないが、当時の背景は全く覚えていない。しかし、唐突に父からもらった本であった事だけは覚えている。

 380頁余りのその本は言わば各詩人のダイジェスト版として吉田精一が選んだ詩が掲載されていた。土井晩翠、島崎藤村、高村光太郎、北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星、佐藤春夫、宮沢賢治、中原中也、立原道造その他の代表的な詩が入っている。ジャンルはまちまちだが私の青春の一頁の思い出が刻まれた本である。

 座右の書という程でもないが宇和島を出る時には私と共にあった。下宿が火事にあった時のシミが表紙に残っている。そんな本だが宇和島に帰ってから何度か本棚の整理をしているうちにいつの間にか所在が判らなくなってしまった。読み直してみたいと思いながらも願いは叶わないまま、昨年の三月、部屋の片づけをしている時突然その本が出てきた。3月11日の大震災の日であった。
 二度と見失ってはいけないため、パソコンの傍らの目に付く場所においている。それを読み直して感じるのは、この数十年間で日本語が破滅に近い状態に追いやられてしまったという事である。これは別章で書いている新地名考にある(現在途中だが)ように、今の日本の地名喪失に似た日本語の喪失なのであろうか。
 言葉のたたずまい、韻の美しさは足下から崩れ去り、言葉が「ただの符号」になっていることを感じた。

 父が世を去って11年になる。家族との団らんの思い出はほとんど無かった父の存在だが、この本を通して思い出がよみがえる。それにしても何故青春詩集なのか、「詩人」とは縁遠い父であったが故に今でもそれは謎である。もしかすると父は本来「詩人」でありたかったのかもしれない。(平成24年11月19日)


 今年はついに紅葉の石鎚山に行くことが出来なかった。昨年、衰えた足の不甲斐なさに我ながらあきれ、春先からトレーニングをしていたが、結局家人の病気の為に時間が作れないまま、11月に入って石鎚スカイラインは閉鎖になったようだ。

 11月二週目の週末には天候が悪くなると聞いたので、金曜日に慌てて四本松に向かった。事情があって歩き始めたのは午後2時を過ぎていた。遠くでパン・パンと鉄砲の音が聞こえた。まさか山道で銃を撃つ人はいないだろうとは思っていたが、結局嫌な予感は的中した。歩き始めて30分ほどすると、野川の上に方で犬の鳴き声が聞こえた。数分ほど歩いて一休みしようとリュックを下ろした時いきなり藪の中から何か飛び出してきた。可愛い子犬であった。訓練でもしているのかと思ったらいきなり尻尾を振りながら私にじゃれついてきた。人懐っこい犬で安心したのも束の間。道ばたに置いた私のリュックをくわえて持ち去ろうとする。
「こりゃ、いけんぞ」
と言ったが、リュックが重くてくわえる事が出来ないと知った犬は私が首から提げていたカメラに飛びつき、フードをくわえて下の方に駆けてしまった。せっかく登ったのにまた下るのかと思いながらも犬がくわえたフードの行方を目で追っていたが、くわえ方が悪かったのか一度落とした。しめたと思ったが犬はまたくわえ直して駆けてしまった。私の登ってきた道と野川からの分岐点が合流するあたりで追いついた時には、犬も飽きたのかもう何処にもフードは見えなかった。
 ああ、残念。やがて野川の方から銃を持ったハンターが上がってきて犬を呼ぶと犬は飼い主の方に駆けていった。
 11月から狩猟解禁になったことを忘れていた。ハンターは鹿を目当てにしていると言った。これからしばらくは山にはいるのも気をつけなければいけない。

結局子犬との遭遇でフードは失うし、時間も体力も消耗して、その日はそこから引き返す事にした。下る途中も尾根道の左右で盛んに鉄砲の音がしていた。

 しばらくサイトの更新をしていなかった。気が乗らない。奮い起こして「新・地名考」として新しくする事にした。これまで回覧板のような事ばかり書いてきたので、本来の勉強に集中したいのだが、先に書いたようになかなか気乗りがしない。時間ばかりがいたずらに過ぎてしまう。テンションが上がるのは午前0時を過ぎてからで、身体に悪い。出来れば昼間書きたいのだが、全く考えがまとまらない。

まあぼつぼつ書くことにする。(平成24年11月11日)


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