心機一転

新・私の独り言


3月去る

1月いぬる、2月は逃げる3月去る。「いぬる」とはこちらの方言で帰ることを意味する。古語に由来する。この言葉は小学校の時三学期に入ると必ずといっていいほどどの先生も口にする言葉だった。「光陰矢のごとし」よりも遙かに実感のわく言葉だった。


帯状疱疹・万歳

 頭のコブコブも少し収まりかけたが、意を決して母を病院に連れて行ったついでに近くの皮膚科に行った。後頭部を見ておもむろに「帯状疱疹ですな」と診断された。その一言でこれまでの疑問が解消された。
 20年ほど前にも帯状疱疹に罹ったことがあった。その時は胸に出てきたのですぐにそうだと思った。疱疹が出る少し前の夜中に突然背中が痛くなり目が覚めた。これは整形外科だろうと思って整形外科に行ったのだが、まったく異常が見られない。数日過ぎて胸に水疱の行列が出てきた。これは痛かった。調べて見ると帯状疱疹が出る時、肋間神経痛を併発する事があるらしい。今回も一ヶ月ほど前から背中の痛みを感じていたが、外見上は何もなかった。その痛みは今思うと以前体験したものと同じ痛みであった。初めは背中の左が痛んだので、心臓に不具合でも起こったのかと思っていたら左側は治ったがしばらくすると右が痛んできた。

 以前NHKの「ためしてガッテン」で帯状疱疹についての番組を見たが、私はずっと以前に痛い思いをしていたので、もう過ぎたことだと高をくくっていた。そこでもヘルペスは体内に潜んでいるから免疫性はないと言っていた。確かにこのところ様々なことで体調が低下していたことは自分でも判っていた。
 それを見透かすかのように再び暴れ始めたのだろうが、まさか後頭部に出てくるとは思っていなかった。
 頭の皮膚が背中や脇腹よりは強かったのか以前ほどの痛さは無かった。原因が判って一安心。

 帯状疱疹にかかったことを喜んでいいる訳ではない。原因が分かったことを喜んでいるだけである。

 先ほど済美高校が広島広陵に競り勝った。上甲監督は春の甲子園では未だ負け無しである。このまま勝ち進んでもらいたい。

 病院ついでに午後からは緑内障の定期検査で眼科に行かなければいけない。歳は取りたくないとつくづく思うこの頃である。
(3月26日)


 お彼岸に墓参りに行ってからというもの、ろくな事がない。
 まず体調が崩れてきた。20日は天気が悪くなりそうなので19日に墓参り兼墓掃除に行った。その日は暖かい天気だったし、翌朝は雨だったために私の判断は誤ってなかったと思ったのだが、どうしてどうして。前日それほど重労働をした訳ではないが、翌日は背中や腰が痛い。せいぜい水を入れた桶を下げて山道を歩いただけだ。ただ、水桶だけではなく庭ぼうき、熊手なども持っていたために非常に無理な姿勢であったことは確かだ。先祖の墓参りに出掛けて恨まれる筋合いはない。
 それよりも少し前になるが「谷やん」から赤染め様についてのメールをもらった。メールではややこしいので電話をかけたら向こうが出ると通話がとぎれる。何度かけても通じない。記録では残っている。私の携帯の具合が悪いようで、一度電源を切ってかけ直したら通じた。これも何とも不思議なことだった。
 墓参りに行ってからと言うもの、胃の具合もおかしくなった。ついには口角炎になってきた。宇和島で言う「くちじけ」である。真冬の寒い時期には時たま出来ることがあるのだが、唇の荒れはないけれど両端が切れて大きく口を開けると痛い。どうも胃の具合が悪いようだと思って、胃薬を飲み始めた。

 胃の具合は相変わらずだが、今度はジンマシンが出てきた。22日、同級生のお講があった。その夜頭が痒くなって目が覚めた。初めは前日枕を日に干した時にダニでも付いて、それに喰われたのかと思っていた。手で触ると後頭部に何カ所も小さな発疹らしいものが出来ている。翌朝軟膏のムヒを付けたが次々と後頭部の右を中心に発疹が出来、初めは痒かったのが次第に痛くなってきた。耳の上や喉にも出来てきた。
 私が病に襲われるのは決まって土日である。ジンマシンか虫刺されで救急病院に行くのもためらってしまう。結局のところ我慢するしかない。睡眠不足も体調を悪くさせる原因だろうと、日曜日は珍しく11時前に床についた。私は12時までに寝ることはほとんど無い。何度か早めに寝ようと試みることはあったが、私の寝床の階下で母が大音量でテレビを付けているために音が床を通して聞こえてくる。昨夜は母も寝たのかテレビの音響は届かなかった。久し振りによく寝たと思ったけれど、結局朝目覚める時間が早くなっただけだった。 月曜になって病院に行こうと思ったのだが、その病院は午前中しか診察しないので、結局あきらめた。

 先日念願のドライブレコーダーが安く手に入ったので、なんとか苦労して車に取り付けた。ネットで見るとその製品は設定が面倒だと書かれていた。私は値段の安さだけでその品を購入したのだが、本当に面倒であった。器械の左右にボタンがあり、いちいち両方を身ながら小さなボタンで設定しなければいけない。おまけに老眼の私にはボタンの文字も読めない。何とか苦労して日付の設定までたどり着いたが、日付を一日間違ってしまった。まあ一日ずれていることさえ分かっていればいいのだが、金曜日に車検に出した時になにやらあったらしい。車検から戻ってしばらくしてメモリーを見ると車検に出す前しか記録されていない。車検が終わってから市内のいろいろな道を走り回った事が全く記録されていなかった。まあ事故に遭うよりは良いけれど、そのうちネットで公開しようとは思っている。

 このところ、時間をとっては宇和島近代史文庫から刊行された宇和島伊達家の記録「御歴代事記」に目を通している。時代時代で記された内容が変わっている。自然災害の事が詳しく書かれているかと思えば、政治的な事に比重が置かれている場合もある。活字が小さいために読むのに疲れるが、面白い事件などに出会う事もある。江戸からの飛脚の日数についてだけ書き抜いても面白いだろう。不義密通で処分されていることが結構目に付く。また、どこの誰々が無断で出奔したとか、生活態度が派手でお咎めをうけたとか書かれている。決して穏やかなばかりの昔の暮らしではない。三条目という姓の家臣がいたことを初めて知った。そういえば目方姓に出会ったことがあった。現在日本にある目方姓は皆同じルーツだと聞いたことがあった。昔NHKの女子アナにいた目加田さんも同じらしい。明智光秀の家臣であったが、敗北後姓を隠して全国に散らばったとか聞いた。目方会という親睦会もあるらしい。
 本は付箋だらけになっている。中には何故ここに付箋を貼ったのか自分でも訳が分からないこともある。(3月25日)


 昨日東横線の相互乗り入れに伴って東急渋谷が大きく変わったという事をニュースで知った。もう40年以上昔のことだが私も東京玉川田園調布に住んだことがあった。通学には目蒲線の奥沢駅から電車に乗っていたが、東横線は自由が丘からよく利用していた。ちょうど東急がステンレスカーを導入し始めた頃だった。初めは田舎ものだったために急行電車には通常の運賃以外に急行券がいるのではないかと思って、各駅停車の電車しか乗らなかった事があった。渋谷駅では何度も場所が判らず迷った事があったが、迷いながらも次第に道を覚えた。渋谷駅周辺はどうにか判り始めたが、新宿駅はなかなか理解できない所だった。
 ちょうど京王デパートの新築工事があったり、西口は淀橋浄水場跡地の再開発工事が行われていて、だだっ広い地下道だけが公園のほうまで出来ていたことを覚えている。西口には野原が残っていた。その頃は新宿に行くにもメインは東口のほうが多かった。地下街を歩くと外に出てまったく予定の場所では無かったことが多かった。渋谷駅よりも新宿駅のほうが遙かに私には難しい場所だった。
 何年か前に上京した際ハチ公前で待ち合わせをした事があったが、ハチ公前も随分変わっていたことを覚えている。

 宇和島出身の私には東京は西半分が郷里に近いからなのか、それなりに地図が頭の中に入っていたが、上野、池袋あたりは何時までも異境の地と言う感覚だった。今地図を見ていたが、山手線の池袋から御徒町の区間はおそらく一度もホームに降り立ったことのない駅もある。西日暮里などは多分私が上京している時に出来た駅だったと思う。地下鉄千代田線も私が東京に居た時に出来た路線だったようだ。一度根津で人と会う用事が出来、そこが何処なのか戸惑ったことがあった。

 何時だったかはっきり覚えていないが地下鉄工事のアルバイトをした事があった。都心に近い工事現場でエレベーターに二回に分けて乗りかなり深い地下に下りた。気圧の調整のためにトンネルに入る前に一度調整室のような部屋に入り、ドアを閉じて現場のドアを開けて行くというようなことをした覚えがある。作業は出来あがったトンネルの中で台車に乗り、コンクリートの継ぎ目をパテで埋めるという仕事だった。結構なバイト料だった気がする。
 少し昔私はある園芸会社に勤めたことがあった。その会社が幕張の展示会に出店すると言うことで幕張に行った。私はお台場が出来てバスで羽田から近距離を走るということも知らず、羽田から品川に出て東京駅から京葉線に乗り換え幕張に行った。東京駅から京葉線に乗りかえる時、かなり深い地下に下りていった。その時それは私がバイトをした工事現場ではないかと思った。在京中にも地下鉄は拡張していて新しい駅が出来ていたが、それも全てを知っていたわけではなかった。

 南予明倫館という南予出身の学生寮が上目黒の公団住宅(当時)らしい側にあり、受験の時だったようだが、そこに何日か泊まったことだあった。東横線中目黒から歩いて行くか渋谷駅からバスに乗って行ったのだが、道などは覚えていない。品川駅から池袋行きのトロリーバスがあり、叔父の家から明倫館に行くにはそれを利用した事があった。まだ至る所に都電が走っていた。バスは道を覚える格好の手段だった。東京駅の南口から目黒駅経由、等々力行きの都営バスがあり、それに乗ることも多かった。ほとんど一区間均一料金だったと思う。

 東京タワーも上に展望台が新しくできたが一度も行く機会はなかった。

 このところ頭の中(脳)がおかしくなってきた。以前からその傾向はあったのだが、この文章を書いていてもきちんとまとまりのある文章で書くことが出来ない。(まあ6年も居たから記憶が混乱しているのだろうが)

 なるべく頭を使うように手紙は下手な文字だが、手で書くようにしている。書いていて突然漢字が出てこない。判らない文字は電子辞書(本の辞書は文字が見えない)を遣うのだが、判っているつもりの文字が突然出てこなくなる。
 (3月18日)


 月曜日から金曜日までは毎朝母を病院に送って行き、迎えに呼ばれるまでのあいだ、ずっと家で待機している生活が昨年の初夏から始まった。最近はそれほどのストレスは感じなくなったが、それでも慣れた道とは言え、病院近くの狭い道路を通る時は神経を遣う。
 道の真ん中を自転車や歩行者が我が物顔で通っている。特に高齢者が目立つ。一番気を遣うのは騎兵隊のような旗を掲げている電動車の老人だ。歩道が通れないのでやむを得ないのだろうが車道を堂々と通っている。
 迎えに来てくれと電話が入るのは11時頃になる。その時は朝に比べて歩行者が更に多くなっている。とりわけ木屋旅館近くの道では惣菜を求める人が路上駐車をしているので危険きわまりない。
 昨日は木藤時計店の三叉路を左折した瞬間ずらっと車が並んで進めなくなった。何台か前に大型バスがハザードを付けて止まっている。????たまにこの近くでは観光バスが近くの料亭に昼食のために客を降ろす光景を目撃するが、そこにはそんな店は無いはずだ。よく見たら回送車の表示をしている。もともとその先にある国道の交差点では右折車がいるとなかなか前に進めない事が多い。対向車があるためにバスをよけることは出来ない狭い道である。何分か待って何事もなかったかのようにようやくバスは動き始めた。
 宇和島ではよく目にする出来事である。

 先日久し振りに水槽の水を換えた。ヌマエビが増えたようだが気のせいだろうか。しかし昨年の秋には9匹居たはずのメダカは4匹しか確認出来なかった。ドジョウやタナゴは健在であった。メダカはサイズから一匹は昨年の夏に孵化したものらしい。水温が高くなると産卵するだろうか。(3月14日)


去る????

知り合いが飼っていた猿。

 あっ、去るだった。サル違い。見る前に予見していたとすればあなたは偉い!

  早くも1年の6分の1が過ぎた。振り返れば半世紀がすぐ前のように思われるが、私の肉体は老化の一歩をたどっている。しかも加速がはげしい。特に記憶力、視力の低下が著しい。テレビを見る時画面が霞んでしまう。普段家の中では使わないメガネをかけて見て、テレビがこのようにくっきり見えていたのかと驚いた。思えば40年前松山にいたころ、初めて近視用のメガネを作った時、ネオンまたたく町並みがこんなにきれいだったのかと驚いた事があった。秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて日本にも使者を遣わせたという話を子供の頃に聞いて、愚かな、と思ったが、今はその気持ちがよく判る。(3月3日)


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