心機一転

新・私の独り言


7月・神様からの贈り物

 これは1957年にアルジェリアから発行された付加金付き切手である。北アフリカに棲息するナガミミキツネ、フェネックを題材にしたものであるが、今まで私が見た切手のなかで最も印象に残っているものである。
 現在であればアラブ諸国の赤十字切手はすべて十字ではなく新月となっているが、この切手が発行された当時アルジェリアは仏領であったため赤十字が描かれていたものと思われる。
 改めて今見るとそれほど強い印象はないが、初めて見た時、なんと悲しい図柄だろうと思った。とぼとぼと砂漠を彷徨う小さな生き物をテーマに博愛の意図を伝えていると思った。

 私が7月の独り言のトップにこの写真を出した理由は、このキツネがうちの「ぼんちゃん」によく似ていると思ったからである。


ぼんちゃん

 私の思い過ごしか。それほど似ていなかった。


いとはん

 一度に沢山のことを書こうと欲張るといつも失敗をしてしまう。
時系列にはばらつきがあるが、話を判りやすくするために、まず、神様からの贈り物について書こう。

 5月23日、目も見えない「へその緒」が付いた三匹の子猫が紙袋に入れられて我が家の敷地に捨てられていた話は以前にも書いた。うち一匹は三日目にこの世の中を見ることもなく死んでしまった。残った二匹の子猫は家政婦の甲斐甲斐しい努力の結果見事に成長を遂げ、獣医師のクロダ先生のお世話で里親も決まった。
 その間私は入院中であったためにどれほど成長したのかさえ満足に確認できないまま、退院する私と入れ違いに里親の手に渡った。家政婦から成長した様子を聞くだけでも十分うれしいことであった。この猫は神様からの贈り物だと思うことにした。最初は哺乳瓶からミルクを飲むことさえ出来なかった子猫だったが、やがて器用に両手で抱えるようにしてミルクを飲む猫も出てきた。授乳が始まると我先に一個の哺乳瓶を目指して家政婦の身体によじ登りはじめ、やがて固形の食事を自ら食べるまで成長し、排泄も自力で出来るようになったという。どこかとぼけた味のある子猫たちが優しい里親のもとで育っていくことを願うだけである。
 
 一方カラスの餌になる寸前だった子猫たちは、遊び仲間が二匹も数が減ったことはすぐに判ったらしく、しばらくは居なくなった相手を探していたらしいが、やがて残されたもの同士でそれまでと同じように遊び始めた。しかし時折他にもいたはずだと思うようなしぐさをみせる。
 「いとはん」はカラスを撃退した当日に発見保護したが、「ぼんちゃん」にいたってはおそらく同じ13日の金曜日にカラスに誘拐されたものと思われるが、一晩中溝のなかで鳴いていたのを家政婦が聞いているし発見したのは15日の朝だった。もし発見が遅れていたなら無事ではなかっただろう。その前後に雨が降っていなかったことも幸いした。顔の傷も消えておどけた表情はなんとも言えない愛嬌がある。頭数は半減したが退院した私を迎えてくれた猫達を見ていると思わず私に笑顔が浮かんでくる。


 驚いたのはそれまでやんちゃな若造だと思っていた「ガリ」が子猫たちに囲まれて暮らしているうちにすっかり大人びてきたことだ。まさか親だという自覚はないだろうが(父親だとすれば里子にだした子猫のほうが可能性は強い)まとわりつく子猫を適当にあしらい、一時期のように敵意をむき出しにすることがなくなった。ときおり乳房を求める子猫を嫌がることもなくそのままにしている。

 ある日など生きた蝉をくわえて来て、子猫に与えていた。生きた蝉など見たこともない子猫は最初は恐ろしがっていたが、やがて「ガリ」のマネをして蝉を触り始めた。猫族の狩猟の伝統を残す状態を目の当たりにした。そのうち食べそうになったので蝉は私が取り上げ、庭の木の枝に留めてやった。この子猫たちも神様からの贈り物だと思っている。


 

 6月23日すい臓に見つかった腫瘍を摘出するため、ついに入院することになった。手術日は6月30日と間があるが、それまでに様々な検査が行なわれ、恐れおののく暇もないまま当日を迎えた。手術室で12時10分あたりの意識はあるが、いつの間にか眠っていて気が付いたのは集中治療室の中の16時20分だった。麻酔のおかげで痛みは感じることはなかったが、次々と起こる幻覚症状にはてこずらされた。幻覚だとわかっていてもそれが原因で起こる譫妄は抑えようがなかった。余りにも多すぎて恥ずかしいのですべてを書くことはやめておくが、私の記憶している譫妄のうち幾つか笑い話のようなものを書いておく。まず、病室から移動したこともないのに、いつの間にかビジネスホテルの一室にいたり別な病院に入っていたことが何度もあった。入院したときに手首に付けられたリストバンドがちぎられていたこともあった。おそらく自分でちぎったものに違いないのだが、まったく記憶がない。まだ身体のあちこちにチューブが沢山付けられているとき、私はどうやら勝手に動き回ったらしく、要注意人物としてマークされたらしい。実に恥ずかしい。時間の感覚が鈍くなったこともあった。月曜日に手術を受け絶食が続いていた。空腹はそれほど辛くはなかったが金曜日の朝から流動食が取れると聞いた。金曜日の朝食を楽しみに待っていたが、時計では朝の10時を過ぎているはずなのに一向に朝食が配られない。気になってナースコールで呼んでみるとまだ深夜の3時であった。この時間の感覚異常は不思議であった。
 
ICUでの会話で次のようなことがあった、
「私の身体からとった組織はどうしたのでしょうか」
「料理しました」
「はぁ?料理????」
私の聞き間違いであった。病理検査に出したと言われたのを料理検査と聞き間違えたのだった。
 個室に入ってから天井の模様が江戸時代の古地図に見えてきた。道路は黄色、河川は水色に色分けされ、街道沿いの町並みもしっかり書かれている。もっとはっきり見たいので頼んでメガネをとってもらい、メガネをかけてみたらただの模様に過ぎなかった。
 里子に出す子猫のことが気になっていたのだろう、やたら猫の姿が現れていた。壁の中だけの存在だと思っていたが、毛布の上から猫の感触を覚えたこともあった。部屋中に霧が立ち込めることも毎度のように起こった。


約三週間この天上を眺めて時間を過ごした。

 ICU(集中治療室)が安らぎの空間であるだろうと思っていたのは大きな間違いだった。とにかくうるさい。様々な音が取り巻いており、担当者の話では私は安らかな寝息を立てていたということだったが、私としてはうつらうつらしたことはあっても常に何かにうなされていた。
 とりわけ目の前の天井に見える三畳ほどの大きさのパソコンのモニターは余りにもくっきり見えるので幻覚に違いないと確信していたがどこにもその証拠がわからないしっかりしたものだった。OSは不明だったがいろいろ出てくるソフトはすべて私が使っているものばかりで、これは私の作り上げた幻覚に違いないと思っていたが、どこかに欠陥があるのではないかとあら捜しをしたのだが実に完璧なものであった。
 念のために担当のナースに天井にモニターがあるかどうか尋ねたが、やはり私の作り上げた幻影であることに間違いはなかった。部屋の明かりを落としたと同時にその幻影は消えた。そのそばにあった小さなウィンドウがエアコンの吹き出し口であったこともわかったが、自分が作り出した幻覚には驚いた。
 翌朝ICUを出て個室に移った。意識はしっかりしているつもりであったが、数日間は幻の世界であった。特に天井や壁に現れてくる様々な映像には参った。担当のナースはどの人も美人で区別が付かなかったが、ある友人から手術後に出会うナースは全員美人と決まっているとメールが来て納得した。
身体のあちらこちらにチューブが付けられ、動くことさえままならなかった。一番つらかったのは一切の水分が取れないために口の中がカラカラに乾き、鼻から胃に通したチューブが喉と接触する部分が痛くてならなかった。
 火曜日の夕方ようやく冷蔵庫の小さな一かけらの氷を舐めることが許された。これに関しては入院前にあるサイトで見たことがあったが、砂漠で出会った一滴の水に匹敵するほどありがたいものであった。これも神様からの贈り物だったのかもしれない。
 生まれて初めてパラマウントの電動ベッドを使った。調子にのって一人で動かしていると衣類が滑ってきちんとした位置に来るはずが、汗のために滑らず身体が奇妙な体制のまま身動きが出来なくなり、ナースコールのボタンを押して助けてもらったことも何度かあった。

 毎日少しずつチューブが外されていき、身体も動かせるようになった。リハビリを始めたが長い期間天井ばかり眺めている時間が多かったために、上半身を起こすことが一苦労だった。
 理学療法士の指導のもと痛むお腹をかばいながらまず身体を起こすことから始まった。さすがにプロの指導は要領を得ている。指導にしたがって身体を起こすとすんなり出来るのだが、手順を間違ってうろたえることもしばしばあった。
最初は上半身を起こすだけで疲れてしまい、そのたびに血圧が上がったり下がったりした。

 ICUでお世話になったのはK脇さんと言う若いナースだった。私が入った夜は他にも一人患者がいたらしいが、たった一人でてんてこ舞いをしていた。まだ二名は少ないほうだと聞いた。夜が明け私が出るときに当たり前のことを尋ねた。
「私にとっては初めての体験ですが、Kさんにとっては日常的な出来事なのですね」
 当然のことだろうが人の生命を預かっている業務では気を抜くことなど出来ないだろうし、目の前の出来事に全力を尽くすことが使命なのだろう。
 入院した時点で詳しい説明があり、また、手術前にも沢山のパンフレットなどを見せられていたので不安はまったく感じなかった。ICUを出てからも丁寧な看護がなされていたためにこんなに甘えて良いのだろうかと思うほどであったが、皆さんが同じ顔に見え、ある時それを聞くと、やはり別人だったのだがよく間違えられると言っていた。私は名札を見るのが苦手なのだが、N宮、N川、K川の三人のマスク美人がずっと同一人物と思っていた。

 どの人も明朗快活で看護に従事し、改めて医療現場の人たちの口には出せない厳しさがあることを感じた。
 病室にいる間、外の世界との唯一の接点はガラケーだけであった。テレビはあったが見るほどの番組はないのでたまにケイタイでニュースを見る程度であった。号泣元県議のニュースもそれで知ったのだが、これに限らずテレビの世界の異常さを改めて感じた。いや日本の社会の幼稚さを改めて感じた。弱い者や叩ける相手には容赦ない嫌がらせをしているように感じた。

 退院出来る日が近づくに連れ、待ち遠しさを覚える反面嫌な社会に戻る事への拒否感を覚えた。ふと四十年ばかり昔モロッコのアガディールにあった日本の水産会社での出来事を思い出した。
 最近はあまり聞かなくなったが、一頃日本の食卓を賑わす冷凍のタコの原産地はモロッコ産が多く見られた。その後モーリタニア産が増えたようだが、先日のテレビでは今はベトナム産が増えているらしい。後のことを考えずその場限りは何時になっても変わらない。
 私がモロッコに行った時にはまだそうではなかったが、日本の商社はすでにその準備を始めていた。何日か遅れて届く日本の新聞を見せてもらうために時々商社を訪れていたが、日本に帰る日が近づくに連れ、どこからか侵入して身にまとわりつく細かい赤い砂に嫌気を覚え、早く日本に帰りたいと思う反面、三面記事に見る日本の出来事にうんざりしてそんな日本には帰りたくないと思ったことがあった。

病室は寒さを感じるほどエアコンがきいているが我がボロやはさぞかし蒸し暑いことだろう。本を読もうと沢山持参していたが結局読んだのは数冊だった。

 顔もはっきり覚えていないが、そのうち三人のマスク美人と夢の中で退院祝いをすることにしよう。
 この体験も神様の贈り物だろう。

 追補・退院してから一週間以上の時が流れた。パソコンにむかってもなかなか言葉が出てこない。とぎれとぎれに書いたものだから随分と奇妙な文章になっている。数分座っているだけで体力が消耗してくる。体重は53kgとこれまでにないほど下がっていた。胃が小さくなってきたらしい。これは有り難いことだった。和霊様のお祭りも始まった。7月もそろそろ終わりが近づいてきた。

 そうそう、書き忘れていた。開腹検査でも良性だと判断されていた我が腫瘍が病理検査に送った結果ガンだと言われたのは手術が終わった翌日だった。麻酔の残っているぼんやりとした頭でニコニコしながら先生の話を聞いた。出来る限りのことは全て処置してもらっているし、組織はどこにも漏れていないと言われた。嬉しく聞くこと以外には対応は出来ない。実際嬉しかったのだ。これこそ神様からの贈り物だった。

 家に帰ってから以前CATVで放送があったときに録画していた
「おろしあ国夢酔譚」をようやく見た。
井上靖の原作を映画化したものである。江戸時代にロシアに漂着し、苦労しながら日本に帰ることが出来た大黒屋光太夫を中心にした漂流民の実際にあった出来事である。
映画の評価はまちまちであるが、見終わったあと私のこの間の出来事がすべて夢の中のことのように感じられた。


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