心機一転

新・私の独り言


行く年・来る年

 私的十大ニュース

◎ 1 私が手術をした。

 
生まれて初めて全身麻酔の開腹手術を受けた。全身麻酔をしたのは高校の時右手を骨折して手術を受けた時以来で、開腹手術は局部麻酔の虫垂炎の時だけであった。
以前も書いたので重複するが、これはその後の私の人生を左右する大きな出来事だったので再度記しておく。

 膵臓に腫瘍が見つかったのは6月のある日だった。糖尿病の気があるため定期的に通院して検査を受けていた。血液検査も普通なら血糖値等だけを調べるのだが、その時は総合的な検査をした。その結果を見た先生は軽い調子で「エコー検査をして見ましょう」、と言われた。私は全く置かれた状況が飲み込めなかった。この先生は名医だと思っている。以前胃が痛いと思って診察を受けたときもエコー検査で腎臓が腫れている事が判り、腎臓尿路結石だった事が判った。

 検査結果で腫瘍マーカーの値が異常値だったらしい。エコー検査で膵臓の真ん中に腫瘍が見つかった。見せられた画像には惑星イトカワのような影があった。画像をくるくる回しながら「よく見つけたな」と先生は感心していた。エコー検査技師の腕も良かったのだろう。その後CT,MRIと検査をして、切りやすい部分だから切った方が良いと言われた。当初は良性腫瘍のようだと言われたが、摘出して検査した結果それはガンだったことが判った。

 ガンだったと告げられた時、私は麻酔のチューブを背中に付けた状態で夢見心地だった。何を言われても人ごとのように聞いていた。転移はないと言われたことには安堵した。
入院中の出来事は幻のような記憶しかない。ただ、麻酔の影響だと思われる幻覚には悩まされた。時間の感覚も麻痺していた。数分が一日のように思うことがしばしばあった。日曜日から絶食をして月曜日の12時20分から手術が始まった。ICUの中で意識が戻ったのは午後4時半であった。体中いろいろなチューブで繋がれて身動きが出来なかった。
 点滴で養分は補給されているがのどの渇きはつらかった。火曜日の夕方小さな氷を口に入れて貰ったのが有り難かった。胃の内容物を吸い取るために鼻から通されたチューブでが声帯にあたっているのがとても苦痛だった。声を出しにくかった。この違和感は退院後もしばらく続いたが、いつのまにか消えていた。

 幻覚でよく出てくるのはパソコンの画面とプレデターだった。これは自分でも幻覚だと判っていた。プレデターは病室の天井や壁に現れては私を威嚇するが、そこから出てくることはなかった。出る度に観察ししていたが、映画に出てくるものそっくりで、よくまあ細かい部分まで見事に再現していると我ながら感心した。今思い出しても細かいことなど浮かんでこない。海馬には残っているのだろう。子猫も百匹ほど出てきた。これは入院する前に四匹も乳飲み子が我が家にやってきたのが気になっていたのだろう。どれも二次元的なものだったが、何度か夜中に足下を猫が走る感触があった。あとよく出てきたのが白い霧であった。身体を起こして本を読んでいると、ページの横から白い霧が押し寄せてきた。足で蹴ると消えるのだが、すぐにわき上がってきた。天井に古地図が見えることもしばしばあった。ただの模様だと思うと地図は消えるがすぐにその模様が古地図に変わってきた。幻覚で最大のものはビアガーデンの喧噪と焼き鳥を焼く煙と臭いであった。これは幻覚だとは自分でも判らなかった。

 時間の感覚異常に我ながら驚いた事がある。絶食が終わり金曜日の朝から重湯が口に出来るというので、それを楽しみにしていた。ところが金曜日の朝11時になっても食事が来ない。院内は静かであるが外は明るい。食い意地の張っている私はナースコールのボタンを押した。食事が来ないと言うと、まだ夜中の二時ですよ、と言われた。改めて時計を見ると確かに二時だった。時計の針が見る度に変わっていることもよくあった。

 おぼろげな記憶のなかではっきり覚えていることがいくつかある。ある日お腹が痛み始めた。ナースコールで看護師さんを呼んで「麻酔が切れた」と訴える私に対し、
「麻酔は切れません」と説教を始めた人がいた。
「決まった分だけきちんと計って身体に入れるようになっているので切れることはありません」。痛み始めて苦しんでいる私に延々と説明するのである。おそらく数十秒の短い時間だったと思うが私には数時間にも感じられた。 麻酔というのは電池とモーターで調節して背中に入れたチューブからモルヒネを入れることなのだろうと思いながら、「じゃあ痛み止めをお願いします」と懇願した。その時はこの看護師さんを鬼のように思っていた。 しかし退院後検査のために通院した時、廊下で出会ったことがあったが、にっこり会釈をしてくれた。他のお世話になった看護師さんの顔はほとんど忘れてしまったが、彼女の顔はしっかり覚えている。

 痛み止めの注射液を点滴のチューブに加えるとやがて針を刺した部分が熱くなってきた。それと同時に痛みは嘘のように消えていた。痛み止めは何度か入れて貰ったことがある。これが無ければかなり痛かったのだろう。最近の医療は患者に痛みを与えないというスタイルになっているのだろう。痛み止めを入れられると不思議なことに視野が変わってくることに気がついた。痛みが消えて薬が効いてきたと感じた瞬間、物が大きく見えてくるのである。これは実に不思議な現象だった。ズームレンズのように少し拡大して見える理由は何だろうと考えて、結論として視野が狭くなるのではなかろうかと思った。それまで左右10mの範囲が網膜に映っていたものが、8mの範囲で網膜に映るから大きく見えるのだろう。別にどうでも良いのだろうがこれが一番の発見だった。

 何日もベッドにくくりつけられていると三半規管に問題が起こってくるのだろう。いつのまにかベッドに横たわっている私は地面に垂直に立っており床が壁のようになっているという錯覚があった。これで立ち上がったら転倒したであろう。幻覚、せん妄での失敗談は山ほどあるが恥ずかしいのでこれ以上はやめておこう。おそらく私は病棟の問題児だったのかもしれない。まだ個室にいたときベッドの周囲にセンサーが付けられた。私が徘徊するのを監視するためだった。

 やがて四人部屋に戻ったが隣のベッドにいたHさんは本人の口から余命五ヶ月ということを聞いたが明るくふるまっていた。私が退院後九月のある日新聞の訃報欄に彼の名前を見つけた。もうすぐ年金を貰うのを楽しみにしていた人だったがそれを手にすることもなかった。朝から晩までテレビを見ている人だった。退院する前に私の余っていたものと新品のテレビ用のカードを進呈したが、それを使い切ったのだろうか。

 とにかく私は命拾いをしたのだが、体力はかなり落ちてきた。なにより根気がなくなった。体力をつけようと歩けるようになってから城山に上ることを日課に心掛けたが、わずか四回上っただけだった。回を重ねる度にしんどくなってきた。歳のせいもあるのだろうが、ときかく面倒なことが苦手になってきた。体力の衰えもさることながら記憶力が極端に衰えた、普通の老人ぼけかも知れない。気取って言えば記憶障害である。とにかくひどい。今したことを覚えていないケースがある。ぼんやり、うっかり何かをしてしまう。きちんと意識しなければいけないと感じている。

 朝三種類、昼二種類、夜四種類の薬を飲むのは実に面倒である。それ以外に漢方薬の「補中益気湯」という薬も食前に飲むことになっているのだが、これをよく飲み忘れてしまう。少し前に松山で鳥越俊太郎氏の「ガンと共に生きる」という講演会があった。私は往復はがきで応募したところ入場整理券が送られてきた。その時鳥越氏もいろいろ薬を飲んでいる話をし、漢方薬も飲んでいると言っていた。私は勝手に同じ薬ではないかと思った。完治することはないだろうからおそらく死ぬまで薬は飲み続けなければいけないのだろう。まあ仕方ないか。

 意識障害は私の周囲に対する気持ちを変えてしまった。自分でもそれを感じるのが宇和島の出来事に全く興味が無くなったことである。先日もある人と話していてそれを指摘された。来年は「伊達入部400年祭」が行われるようであるが、何をしようとどうでも良いと思うようになった。そうかと言って世の中の全てに無関心になった訳ではない。大きく動いている日本や国際社会の出来事については強い感心は持っている。この宇和島に関しての意識だけ欠落しているのである。何故だろう。

◎ 2 母親に関する様々な変化

 私達のような素人では母親を風呂に入れることが難しいのでデイサービスを利用するようにした。週に二回の利用だがうまく慣れるかどうか心配だったがすんなりと事は運んだ。
 おそらく周囲に心配をかけるといけないので、楽しんで行っていると装っているのだと感じた。デイサービスから帰ってくると気疲れでくたびれたのだろう、すぐに床について寝てしまう。認知症が進行しているのは明らかだが、まだそれほどでもない。デイサービスのほうは何とかなったものの、ある日突然歩行が出来なくなった。あちこち病院を探した結果この近辺では老人医療の専門家として有名な卯之町のK医院にお世話になることにした。何時も待合室は高齢者で混雑している。宇和島から通っている人も多い。顔見知りの数人にであった。
 歩けなくなったのは腰椎の変形が原因だったらしい。庭を歩き回って勝手に草花を引き抜いたりすることはなくなったが、這って部屋を移動する姿を見ると哀れさを感じる。
 とりわけ困るのは食事のことだ。家政婦は毎回メニューに悩まされている。母は何でも食べると言っているのだが、偏食ばかりで出した食事に全く手をつけないことが多くなった。箸を使うのが嫌になったらしい。手づかみで食べられる菓子パンなどは完食するが、毎回パンばかりだす訳にはいかない。パンも菓子パンは食べるが、サンドイッチなどは食べようともしない。

◎ 3 元宇和島東校野球部監督である済美高校野球部監督の上甲正典君が逝去した。

 これには参った。私よりも状態が悪かったことに全く気が付かなかった。

若い頃の上甲君(選抜優勝直後)

東高時代の戦績等リンク
http://tack7.fc2web.com/higashi/higashi.html
http://www42.tok2.com/home/uwajimanenrin/nenpyou/higashi/higasikou.html

彼に関しては様々な思いがある。何時の頃からか大会が始まる度にお守りを送ることが私の行事になっていた。

定形外郵便で140円なのであるが、その封筒には写真の切手を貼ることにしていた。60円と80円で140円になる。まだこの切手が何枚か残っているが、これを貼った郵便物をもう彼に送ることはないかと思うと虚しい。

監督の遺影

◎ 4 来年三歳になる孫が私に慣れてきた

 我が家に来ても絶対に私とは目をあわそうともせず、話しかけても全く無視されていたが、ある日突然普通に話し始めた。挨拶をすると、どういう風の吹き回しかそれまで何事もなかったかのように挨拶を返し、猫や金魚に関しておしゃべりをするようになった。孫の家族の男性は私の息子しかいない家庭環境だから男の人が怖いらしいとは思っていたが、この変化には私が戸惑ってしまった。孫は奥さん似で私の家系とは異質な顔をしている。眺めているだけで楽しい。しかし疲れてしまう。

◎ 5 秋に上京した。

 
私が在京中に出来た東京タワーの上階に初めて上がった。いつか行ってみたいと思いながらも学生時代には果たすことが出来ないまま東京を去った。今は東京スカイツリーというタワーが出来ており、そこの方が人気があるらしいが私にはやはり東京タワーのほうが遙かに魅力がある。

◎ 6 早朝ウォーキングを開始したが退院後の体力に自信がなくなりやめた。

 
これは数合わせの出来事としてあげただけだ。

◎ 7 切手コレクションを処分し始めた

 私たちの年代はグリコ切手ブームの落とし子である。子供の頃には一枚の小さな紙片があるだけで地球上のあらゆる場所に手紙を届けることに驚異的なものを感じていた。10円玉を握りしめて郵便局に切手を買いに出かけたのだが、やがてしばらく中断した。自分が給料を得る時期になり、また再開したのだが、今私の部屋の大部分を切手関連のものが占め、ある時家政婦から「これ早く処分しないと紙くずになってしまう」と言われ、思い切って処分を始めた。その矢先入院することになり処分も中断してしまったが、元気なうちに処分しなければと思っている。

◎ 8 猫がたくさんやってきた。


 猫に関してもこれまで書いてきたが、改めて。

 来て間もない「ボンちゃん」カラスの攻撃の痕跡も生々しい。

「イトはん」

この頃の「ボンちゃん」の目の色はブルーがかっていた。

8月の「ボンちゃん」

「イトはん」 カメラを向けると首を傾けたのには驚いた。

すっかり青年の顔立ちになった「ボンちゃん」(最近)

「イトはん」は山猫のような気性の荒い猫になるかと思っていたが、そうではなかった。

二匹並んでいる所を写真に撮るのは難しい。

 「ボンちゃん」の尻尾は面白い。まるでワオキツネザルのようだ。
カラスの餌になりかけていた「イトはん」、「ボンちゃん」もすっかり大きくなった。11月の終わりに二匹の避妊手術をしてもらった。我が家に来たときは同じ大きさで300グラムだった二匹は、今では「ボンちゃん」の方が大きくなってきた。ただ外見が増毛タイプなので体重はそれほど変わらないように思う。

◎ 9 パソコンのOSをウィンドウズXPからウィンドウズセブンに変えた

 最初は使いにくかったが何とか慣れてきたものの、古いソフトがインストール出来ないのには弱った。早いのは早いと感じる。
 
ほら、10に何を書こうとしていたのか忘れてしまった。  思い出した思い出した。

◎10 お隣が家を新築される

 
昭和27年頃に現在の家に引っ越した。何時の頃か忘れたがおそらく昭和28年だろう、それまで畑だったお隣に家が建った。よいとまけの作業をしている光景を窓越しに眺めていた記憶がある。私は二度もお隣の家が新築するのを目撃することになる。

(平成26年12月29日)


12月のゴーヤ

 12月に入ると急に寒くなってきた。昨日初めてエアコンをつけた。これまでは節約のためにエアコンはほとんど付けたことがなかったが、体力に自信がなくなった今年は風邪をひかないように細心の注意を払うことにした。しかし茶の間は相変わらず寒い。

 7月に退院した時には全く花芽がなかったゴーヤだが、帰宅してからこまめに世話をしていたら秋になって沢山花が咲き実を付け始めた。ただ、おのれ生え状態なので梅の木にツルを絡ませて全く手の届かない高いところに実がなってしまった。中には全く気がつかないところで大きな実を付け、完熟になり落ちてしまったものがたくさんあった。

 私が最初にゴーヤを育てたのはもう10年以上も前のことになる。物干しに置いた植木鉢で作り始めた。背丈はそれほど伸びなかったが、7月になると毎日数個の実を付け、収穫するのが楽しみであった。100個までは至らないにしてもとにかく沢山収穫できた。ところが翌年も同じように作ったのだが、気温が高すぎたらしく、実をつけたかと思うと翌日にはすぐに真っ赤になり一個もとれなかった。しばらく実のなる植物はあきらめていたが、今年の5月にホームセンターで二本の苗を買ってきて庭に植えた。底のあるプランターではなく板を井の字型に組み立て、わくだけ作り家庭菜園用の土を入れ、底肥にたっぷりと油かすを敷いた。その効果があったのだろう。私が入院中に家政婦は水さえ与えなかったというのによくぞがんばってくれたものだ。ただ大きく育ったのは二本のうち一本だけだった。

 自然は人間のように嘘をついたり欺いたり駆け引きをしない。以前それほど親しくもない人からいきなり電話がかかってきたことがあった。その人が催すイベントのチケットを買って欲しいという内容だったが、私の周りにも時々自分の都合の良いときだけ猫なで声で近寄ってくる人がいる。普段は疎遠にしている人でも、こちらが何か役に立ちたいと思う人もいれば、逆にそんな時だけにと不愉快に感じる人もいる。自分では気がつかないのだろうか。

 植物に限ったことではないが自然のものは丹精込めて世話をするとそれなりに反応があると思っている。退院後は毎日10時前後に水をまき、週に一回は薄めの化学肥料をまいていた。10時と言うのは水が地温となじんで吸収しやすい時刻だと聞いたことがあった。以前つとめていたある園芸会社の会長の受け売りである。その会長は実に苗を育てるのが上手だった。小さな植木鉢にスイカやメロンを作ったのを見たことがある。私も真似をしてメロンに挑戦したことがあったが、会長はもともと専業農家で何十年の経験者である。いきなり素人の私が作るには無理であった。
12月になっても日当たりの良いところにあるゴーヤのツルには花が咲き小さな実をつけていたが、さすがに寒さが厳しくなると樹勢は衰え枯れ始めた。まるで今の私を見ているようであった。

 私のガンはステージ1だそうだ。状態によるのだろうが甘く考えていた。ネットで調べると膵臓ガンの場合ステージ1で5年後の存命率は57%と書かれていた。まだ5年かあと5年か、取り方はいろいろあるだろう。やり残したことは沢山あるが、まあ5年もあれば十分間に合うだろう。43%は生存していることだろうし。



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