新・地名考・3 宇和島と板島について


宇和島と板島について

 一般的には宇和島という地名は伊達秀宗が入部した後に使われ

始め、それ以前には板島と呼ばれておりたと云われている。私もそ

のように理解していた。ところが伊予史談101号を読んでみるとそ

れ以前に宇和島という文字があったとの文献による報告があるの

で、ここに紹介しておく。要約したほうが簡単なのだが、私の勘違

いがあってはいけないので、例によって原文を書くが、旧字体が多

いために、新字体に直した部分がある。

再び板島と宇和島に就いて

久 延彦

 本誌第九十八号「郷土史断片」中に、大木長右衛門家記及入川

文書によって板島を宇和島と称するに至ったのは、遅くも慶長八

年八月廿四日以前であらうと述べたのに対し、兵頭氏は大木家

は初代より代々長右衛門と称してゐたから、何代目の長右衛門

が記していたものか不明であり、宇和島を改めて板島といったと

いふ記事も逆に他のものから採ったものではないかと考へると述

べ、入川文書に対しては、筆者の大塚孫左衛門に就いても全く知

らない人である。慶長八年八月廿四日に於いて、確かに此人が

宇和島と書いてゐるとすれば如何にも面白いものであると思ふ

が、慶長年間に入って後に、高虎や其父虎高の書いたものをはじ

め、板島と称してゐるのを打消すことは出来ないと思はれると述

べて居られる。

 藤堂家の文書で今日残ってゐるものには、何れも板島とあり、

宇和島とあるものはただの一通も見ない。元和元年に山家清兵

衛が藤堂家より受取った引継帳には「奥州板島殿御屋敷ノ帳」

あり、「富田宗清覚書」には「板島より十里余口にみつくへと申舟

付御座候」(之は富田信濃守の三机塩成間の開鑿工事のことを

記せる條)以上は何れも根本資料であって当時板島と称したこと

を立証するものである。其他第二次的資料としては公室年譜略に

「豫州今治ノ城ヲ公居城ニセント欲シ玉ヒ、近年造築アリ大凡ニ功

成ルニ依ヲ家中ヲ移サル。●泉板島両城ハ溜主居城番ヲ置テ守

ラセル…」と

ある。之のみによれば全然宇和島と呼んだとは思はれない。
(管理人注●は文字不明、角川漢和中辞典にでも見つからなかった。おそらく地名であろう)

 しかし入川文書に宇和島とあることにより、遅くも慶長八年以前

に於いて、たとへ板島を宇和島と改めないにしても宇和島なる称

呼が用ゐられたことを否定することは出来ない。若し之を否定せ

られんとするならば、入川文書は大塚孫右衛門光興が慶長八年

八月廿四日に書いたことを否定するに足るだけの理由を見出さな

ければならぬ。この入川文書は海賊史研究の資料として、専門学

者の間で認められて居るもので、いはば史家の間に定評ある資

料である。この文書の終の方に

 (上略)丹後守様太閤様降参に付、御領地被下、遠藤様宇和島

  へ御出被成、丹後守様豊後へ御引越之跡遠藤様被下。

慶長八葵卯歳八月廿四日 大塚孫右衛門光興

とある。この丹後守は来島康親の事で、来島は秀吉の四国征伐

に戦功をたて、風早郡一萬四千石(此文書一萬三千石としてゐ

る)を賜はったが、慶長五年豊後国玖珠郡森城に転封せられた。

其のあとを豫て宇和島に封ぜられてゐた藤堂高虎に賜はった。

(これは慶長五年十一月高虎は関ヶ原の戦功によって加増とな

り、伊豫半国を領し、今治城に移ったことをいったものである)こと

を書いたものである。即ち主として風早郡の領主関係を記したも

のである。而してこの文書にある遠藤様とは一見不可解である

が、当時遠藤をいふ人が来島氏の豊後国森に封ぜられた後に風

早郡を領したことは他に微証もないから、之れた大塚光興が、藤

堂なる文字を知らずトウに遠の訓たるトウを、堂(ダウ)の代りに

藤(トウ)を当ててトウダウと読ます考へであったと解さねば前後の

連絡がとれなくなる。戦国時代の人がよく当字を書くことは古文書

にも往々ある処で、別に異とするには足らない。私はこの文書に

よって文禄四年板島七万石に封ぜられて居た高虎が、今治へ転

封の際、来島氏の所領であって風早郡一萬四千石をも併はせて

領する処となったことを大塚光興が書いたものと認めたいのであ

る。大塚光興が書いた宇和島は今の宇和島のことであり、高虎が

文禄四年に板島を宇和島と改めないにしても、慶長八年以前の

は宇和島の称呼が用ゐられ、一部の人は之を用ゐてゐたものと

いはねばならぬ。 宇和島と書いたものに応永三十一年甲辰卯

月初日と刻した旧北宇和郡来村来応寺の鰐口の銘に「豫州宇和

島縣来村郷……」とあるが(大日本金石史)島はおそらく写し誤り

であらうと思ふ。事実宇和島縣とあれば宇和島の称呼の最古のも

のといへよう。

 仙台伊達家の伊達貞山山治記録に

  四月八日(元和元年)侍従殿は上意に因て大阪に出陣し給は

  ず御在所豫州宇和島に御座す。

とあるが、当時何か確実な史料によったものであることは、この記

録が古文書を資料として記したものであることによって明かであ

る。

 徳川家康に従ひ大阪陣に軍功の多かった土屋友貞の記した、土

屋友貞私記に、

  一 伊豫国宇和島

    富田信濃守

  権現様御代に坂崎出羽と及公事改易岩城鳥居左京亮に御預

   の内病死。

とある。がこの書は元和三年に書いたものであらう。言行録には

   高虎公豫州宇和島に御在城………

木村高敦の編した武徳編年集には 

   五月下旬(慶長十八年)豫州宇和島城主富田信濃守知信…

伊達鑑八に

  同年のみゆ、まさむね一男伊達とうたうみの守ひでむねに、い

よの国うわじま十万石御ちぎゃうくだされ。よくねんしょうち入也。

まさむねよりこうり左衛門(桑折景頼)、志賀右衛門両人からう、

此ほか、さくら田げんばんをはじめとして、馬上三十き、とうとうみ

どのへしんぜられ候。いよの国四国にて南方ゆへ、だんきにてふ

ゆも暖にてゆきなどふる事なし。ひでむねしょち入の時さむかりけ

れば、

    宇和島のさむかりけるもだうりなり

     しかのゑもんにこうりさへもん。

   かようにらくしょなど言うたるとな。

 この伊達鑑の史的価値に就いては余り知らないが、大日本史料

に引用されて居る所を見ると、全然信用出来ないものではあるま

い。これに宇和島のさむかりけるも……の歌が載せられてある

が、仙台の如き寒い所の人々が伊豫の南端たる宇和島を雪等降

らず暖い処と想像していたが、さて入国して見れば寒かったので

この歌を詠んだとは頗る自然だ著者が机上で捏造したこととは思

はれない。この時板島と呼んで居れば、板島のさむかりけるも……と

詠む筈であらうが、宇和島といっている処を見ると、既に宇和島と

呼んでいたものではないかと考へられる。

地誌提要十六に

  十八年(慶長)和勝罪アッテ国除シ、伊達秀宗之ニ代リ拾萬石

板島ヲ改テ宇和島ト称ス。

とあるが如何なる史料より採ったか明らかでないから無条件で信

ずることは出来ない。

 以上述べたことを要約して結論に代へれば、板島の称呼は元和

頃までも(須合田文書)用ゐられ、公の文書には皆板島と記して

ゐることを考へると、藤堂家に於いては、正式には板島を用ゐて

居たことが知られる。しかし当時宇和島といふ称呼は全然用ゐら

れなかったかといふに、左様ではなく、入川文書によって立派に

用ゐられていることが明かであり、伊達貞山治家記録以下により

秀宗入国以前より用ゐられて居たのではないかとおもわしめるも

のがある。

 そこで私は文禄四年宇和島を改めて板島ととしたのは、吾々の

従来の解釈が誤りであって、当時宇和島の称呼が併用せられて

ゐたから、或時は板島と呼び、ある時は宇和島と呼ぶので紛はし

かった為、藤堂家では宇和島の称呼を廃して板島のみを用ゐさ

す様にしたのではなからうか。藤堂家の文書には板島のみを用ゐ

て、宇和島を用ゐなかったのもこの理由からではなかろうか。左

様に解さないと入川文書を偽物とせねばならぬことになる。私は

入川文書を偽物なりと断定するだけの鑑定眼を持たないのを遺

憾とする。

 以上は仮設としてであって、この仮設を否定するとしても一部に

は慶長八年以前に宇和島の称呼が用ゐられてゐたことは入川文

書を偽物なりと立証することの出来ない限り、之を否定することも

出来ないのではなからうか。

 

管理人談話

私が聞いた話では藤堂高虎について書かれた「聿脩録(いっしゅう

ろく)」に宇和島と言う地名が出てくるが、これは高虎の死後文政二

年に藩祖の記録を記したもので、資料的価値は極めて低いそう

だ。

初めの頃に出てくる兵頭氏とは兵頭賢一氏のことと思われる。

執筆者の久延彦氏については全く手がかりがないが、かなり宇和

島と板島の呼称の変化についてこだわりを持っておいでのようであ

る。おそらくペンネームだろう。初めは兵頭賢一氏かと思っていた

が文中に兵頭氏と出てくるので別人だろう。おそらく久延毘古を文

字ってペンネームにしたのではないか。

(久延毘古(くえびこ)は、日本神話に登場する神。)

本文中引用したものと思われる段落のある記載は色を付けた。

この説には初めて出会った。久延彦氏が読まれた入川文書が本

物であればこれは画期的な学説であるが発表された昭和15年(1

940)から70年以上も経過しているにもかかわらず、この説が日

の目を見ていないのは、久氏が見た入川文書の真贋が問題なの

だろうか。九州大学の図書館には入川文書が蔵書としてあるらし

い。また入川文書に関しては書かれているが「大木長右衛門家記」

というものが全く出てこない。九州大学の蔵書では入川文書として

登録されているのだが、下記の松山市のサイトでは「川」は全て

「河」になっている。

 ただ何時の時代にも都合の良いような捉え方が気になる。自説

に反する傍証は書き誤りだろうとする傾向が強い。

地名とは関係ないが「伊達鑑」八では馬上三十騎と書かれている。

宇和島では伊達五十七騎と言われているが、実際に宇和島には

来ていない人や後になって家臣となった人まで含まれている。検証

はされて居ないのだろうか。家中由緒書そのものも、「聿脩録」と

同レベルのものなのだろうか?

補・文中に出てくる入川文書とはおそらくこれのことではないだろう

か。

松山市のホームページから引用

入河家は大洲藩領・小浜村の代々の庄屋であり、入河家文書は、

「入河家系図」を中心に大塚多兵衛に関する記録と、「大塚孫右衛

門光興遺書写」である。


 「入河家系図」は巻子本で3巻からなり、その第一番は長和元年

(1012年)から明治時代まで、第二番は慶長8年(1603年)以降のも

の、第三番には長和元年から万治2年(1629年)までの事項が記録

されている。


 「大塚孫右衛門光興遺書写」(1通)は農民直訴の資料である。藤

堂高虎の領治時代、小浜村の庄屋・村民が風早代官所の高免賦

課に対して直訴、抗争となり、代官は国払いを命じられ、農民の勝

利となったという。


慶長10年(1605年)8月の大塚孫右衛門光興の遺書(写)であり、紛

争の年次は示されていないが、当時の忽那島の農民生活を研究

する上でも、貴重な文献である。


はじめに  1 駄場 2 網代騒動記  3 宇和島について 4 宇和郡について 5 三間について

6 葛川の謎


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