新・地名考・4 宇和郡について


宇和郡について

  昭和15年発行の「伊予史談101号」からの記事を引用する。

 旧字体、旧仮名遣いが多い。出来るだけ原文のまま転載したが

旧字体が面倒なので新字体になおした部分もある。。ミスがあれば

ご容赦を。

 宇和郡考

西園寺 源透

 宇和郡は伊予の西南に位した大郡である、松葉城碑(上甲振洋

撰)に曰く「宇和郡ハ幅員頗大、上古未ダ闢(ひら)ケズ、故ニ正ニ

一郡ト為ス、其實ハ隠然タル一成國也」と、余思ふに国造り制度の

時代は宇和ノ国と云ふたかも知れぬ、大化二年国郡制を定めたる

時宇和郡を置かれたものであらう。

 而して郡の根據たる宇和郷は、太古湖沼であったが、永久の年

所を経て、自然に水が涸れて沖積層となったものとの事である(地

質学者の説))それ故に宇和郷には湖沼に因みある地名が多々残

ってをる。旧村名の大江、清澤、加茂(蒲の生じた地)、伊崎等があ

り、字には島巡り、貝回り、舟戸、舟川、舟著、瀬戸、澤、澤津、柳

ヶ澤、中澤、上澤、下澤、後澤、澤向ヒ、清澤、澤山、島岩、荒瀬、

左島、沼丁、江良、江湖、ワタシ、本渡シ、洲先、狭渡リ、籾ノ洲、

菅尻、スゲノ谷、入宇、菅生田、マヒコミ等五十七ヶ所ある、是等を

皆湖沼時代の名残と見るのは危険であるが、しかし其幾部分は太

古の遺称であると解したい。

 此地の湖沼時代、郡の野村、渓筋、中渓、魚成、高川、土居、遊子川、総川、及び北宇和郡の三間、喜多郡の大洲平野も湖沼であったと見える。

 宇和郷には三千年以前より人類が移住したものと云はれてをる

(考古学者の説)最初栖息した人類は不明であるが、第二次的の

住民は弥生式土器使用人種(出雲人種か)で、弥生式土器、及石

器が種々出土してをるので証明ができる。

 第三次に移住したのが、大和民族(天孫人種)で、一次二次の先

住民と融和同化し、其混血して蕃垳したのが、今の我々の民族で

あると思ふてをる。、此の三次的の遺物が、銅鐸、銅剣、銅鏃、土

師部器、祝部土器(朝鮮式土器)で、是らは宇和郷の古墳より出土

してをる。此三次的の最初の権威者が、宇和津彦命で、宇和郡の

開祖である、此命は国乳別命と同神であるとの説があるが之は尚

研究の余地があらう。此宇和津彦命を祭祀した所は、宇和郷の中

心地点、即ち中川村大字坂戸の宇和津彦神社である、此神社は

室町時代より衰微して、今は僅かに面影を留むる村社であるが、

年代不詳正六位上を授けられ、仁和元年正月十日には従五位下

を授けられ、早くから官社に列せられてをる、古き官社は正しく此

坂戸に在るもので、宇和島市の宇和津彦神社は、第二次的のもの

と認めてをる。

 宇和の国衙、又は宇和郡家の所在地は、慥(たしか)に今の中川

村であったと思ふ、此時代は喜多郡はなく、宇和郡の内であった。

 和銅霊亀の交、條里制行はる、宇和郷の地には條理に因める字

〔一丁目(一條目)、町永(條長)、柳ノ町(條)、十丁(條)、中ノ町

(條)、大坪、坪ノ内、坪グリ、小路ヶ坪、町ノ坪、東坪、木ノ坪、大

町(條)、下ノ町(條)、一ノ坪、奴太坪〕多く存してをるので證明がで

きる。

 霊亀元年、式により里を郷に改められた、這は條里制の里と混

同するからである、此時代の郷は新谷、久米、矢野、石城、三間、

立間の六郷であった。

 貞観八年十一月八日、宇和郡を割て、宇和喜多両郡を置かれた

(三代実録)此時喜多郡に属したのは、新谷、久米、矢野の三郷で

あったが、後矢野郷の大部分は宇和郡に復属して居る。

 貞観十三年、石城郷を割て石野郷を置かれた、這石城郷は今の

宇和一円で、土地広く戸口が規定の数に倍増したからである。

 是より以下の沿革は省略する。

 宇和郷の地は、以上叙述するが如く、最古き沿革と、豊富なる史

実とを有してをる、然るに宇和は上(ウハ)の借字にして、高地の意

であるとの一説がある、は平易の説明で素人向はするが、学者を

首肯せしむる事はできぬ、宇和はウワにして、上はウハの仮名で

ある、ワとハは元来発音異なってをるから、根本をはき違へた説で

ある、山本博士曰く、古代の学者は発音が正しくて、仮名を取り違

へる事はないから、須くウワに依りて研究すべきであると、余は爾

来種々考へて見たが発見する所がなく、大に焦慮してをった、かか

る場合、偶々○○○○の人が、兎をヲサギ(古語也)と云ひ、鰻を

ヲナギと呼び、宇和をヲワと称ふることを知り、始めて(初めて)研究

の端緒を得、専らヲワに就いて研究の歩を進め、とうとうヲワは峰

曲(ヲワ)、又峰輪(ヲワ)である、宇和は峯(?)曲の借字であること

に気が付いた。、そして、ヲノヘ(尾上)は峯上(ヲノヘ)で、山の頂

上を意味し、ヲサキ(尾崎)は峯崎(ヲサキ)、で山の突端を意味し

ていることは周知に属してをる、依りて古代は峯巒の事を{ヲ」の一

語を以て表示してをった事が判る。

 前述の如く、ヲワのである、即ち山である、ワは曲、又輪で

ある、曲と輪はクルワ(郭)である、クルワは轉(転)曲の義で、周囲

をかこむこと又は外がこひと云う事である、故に峰曲(ヲワ)は山峰

を以て周囲をかこむ地と解して支障のないものと思ふのである。

 仰も宇和平野は、もと湖沼n沖積層となれる盆地にして、四方八

方皆山である、即ち峰巒を以て圍繞せる一郭である、換言すれ

ば、前述の峰曲である、依りて余は「ウワ」は「ヲワ」の転であると考

証する所以である。

 此説は前年宇和同郷会の席上で大略を発表して、同郷人の共鳴

を得たものであるが、茲に稍具体的に記述して、博識の批正を仰

ぐものとした。(昭和十四年十月十二日夜脱稿)

以上は伊予史談101号に書かれた西園寺源透氏の論文である。

目が見えにくい為に正確な転記が出来たかどうか自信がないが、先人の研究に耳を傾けては如何であろうか。


はじめに  1 駄場 2 網代騒動記  3 宇和島について 4 宇和郡について 5 三間について

6 葛川の謎


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