宇和島城下埋立ての記録

ご存知のごとく、宇和島市は背後に山が迫った極狭いところである。その山の東は高知県に注ぐ四万十川上流である。小さな寒村にすぎなかった宇和島が、城下町としての様相を表し始めたのは、藤堂高虎が宇和郡を拝領した際、それまでの居城をこの板島の地に移してからだと言われている。1968年宇和島市教育研究所刊行の「私たちの郷土」増訂版から、宇和島の埋め立てによる町の拡張を見る。

←左図は「鶴鳴餘韻」を参考にして記された伊達氏入部以前の推定図である。

辰野川下流は伊達氏の所領になる前に付け替えられたものと考えられる。

図の川は上から@須賀川、中央南東から北東の川がA辰野川。

下東から西に流れるのがB神田川(以下同じ)

図面は上部が北(1600年前後か)

寛永年間の地図より→

北の@龍光院、南のA泰平寺あたりまで海岸線が迫っていたようである。

辰野川河口に向新町ができはじめていた.。

←藩の原図によるが年代不明。

正保、慶安よりは後であることが向新町@ができていることで判る
(1648年以降)

この図も藩の原図による→

浜御殿@の完成により延宝5間より後(1677)と思われる。

図では海になっているがAあたりが干潟になり、埋め立て伺いなどが出されている。

←この図は元禄16年(1703)藩の原図による。


http://tack7.fc2web.com/sankaku/sankakusan2.html

↑ここに図面があるから見ますか?

    

この図は正徳元年(1711)藩の原図による→

砂州が埋めたてられ@樺崎新田、須賀新田が見られる。

城南地区にもA松崎新田が見られる。

     

←この図は宍戸家の原図による文久2〜3年のもの
(1862〜63)

須賀川河口に@富包新田がみられる

また、薬研堀近くに河内屋新田、岡村新田、兼助新田が築かれた。坂下津には日振新田も見られる。

これは大正10年(1921)発行の地図から→

城の堀は埋め立てられ、わずか現宇和島東高の隅に名残が見られる。@

この頃の朝日町、弁天町はまだ田圃であった。A

新橋通りは海岸で沿岸航路の港としてにぎわった。B

須賀川の付け替え、築地の埋め立てはまだ行われていない。

昭和30年頃の宇和島

@須賀川は住吉山の北に付け替えられた。(昭和5年着手昭和7年10月15日完成)

A朝日運河が造られた(大正11年)
(内港浚渫工事に伴い、現在の朝日町、住吉町、築地などの低湿地帯を埋立て造成する工事に伴い造られたものである)

B内港は現在の国道56号線のところまで埋め立てられた。

C田であった場所に集中的に学校が造られ、文教地区となった。

平成21年4月現在の様子。

しまった!城山は書き間違えて形が変わった。

少し大きめになってしまったが、一番上の図面に比べると宇和島の市街が埋立の歴史の上に成り立っていることが判るだろう。

住吉山の西側(左)には徳洲会病院が出来た。

やがて大浦湾の埋立が完了すると、須賀川下流に橋が架けられ、現在住吉小学校の前を通っている県道が徳洲会病院のそばを通るようになると聞いた。


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